日本バプテスト名古屋キリスト教会
教会『広報誌』に掲載された礼拝メッセージです。

光あれ

1はじめに神は天と地とを創造された。 2地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。 3神は「光あれ」と言われた。すると光があった。 4神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。 5神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。
創世記1章1〜5節

朝日新聞に「孤族の国」という題で、現代の日本社会のかたちを追った連載記事が載っています。弧族の「弧」とは、孤独の弧という字が当てられていますが、その連載記事では、今、私たち日本の社会が、家族から弧族へ、新しい生き方と社会の仕組みを求めてさまよっている・・・、そうした弧族の時代が始まっていると語られています。「家族」というとき、皆さんはどのようなイメージを持たれるでしょうか。それは、これまでもその時代時代によって多くの人が思い描いたイメージというものは違ってくるのでしょう。たとえば、かつては3世代・4世代が同じ家に住んだ大家族のイメージもあったのでしょうけれど、今は「家族」と聞いて、その大家族を思い描く人はほとんどいないのかもしれません。そして、今、その家族とは、急激に増えているのが夫婦だけの世帯であり、そして、それをもはや家族と呼ぶことができるのかは疑問ですが、たった一人だけの世帯なのです。もちろん、私たちの社会は、特に戦後、血縁や地縁に縛られず伸びやかに「個」が発揮される社会を目指してきたことは事実でしょう。晩婚、非婚化も、それぞれの人生の選択の積み重ねという面は確かにあるでしょう。まことに「個」が大切にされる社会は、ある意味で成熟した社会と言えるのかもしれません。しかし、新聞の記事には、私たちの社会が個人を単位とする社会へと変化してきたにもかかわらず、政策も人々の意識も、そのことに追いついていないこと、また「個」を選んだ結果、孤独の「弧」に足を取られている実情をついている点などは、なかなか説得力があると感じました。今、人が旧来からのしがらみから自由になって、個人の「個」を伸びやかに生きている時代というよりも、人と人との関わりが極端に希薄になって、孤独の「弧」をただひっそりと生きているような印象を持つのです。

連載記事には、39歳で餓死した北九州門司区のある男性の話しが紹介されていました。詳しくその記事についてお話しする時間はありませんが、取材した記者の感想には、39歳の男性の足跡をたどって見えてきたものは、孤立した働き盛りを支える希望の無さということでした。正社員を辞めた時期にバブルがはじけ、職を転々とした男性の生活は母親の年金や親族の援助で成り立っていました。「自分の店を持ちたい」との夢を周囲に語っていましたが、蓄えと呼べるものは無く、自給何百円のアルバイトの稼ぎでは借金だけが膨らんで、生活は成り立っていなかったようです。若い頃、交際相手もいましたが未婚のままで、頼みの母親を亡くすと途端に孤立無援になったといいます。人知れず、電気の切られた真っ暗な部屋で一人ひっそりと亡くなったという男性・・・、私は、家族という人と人とのつながりさえ失いつつある私たち日本社会のこの弧族の時代に、何を大切なこととして築いていかなければならないかを思わされました。人とは、一体、何でしょうか。如何に生きてゆくべきなのでしょうか。闇の深い時代に、「光あれ」との希望の言葉を真剣に受けていかなければならないでしょう。

さて、先ほどは、旧約聖書『創世記』1章のいわゆる「天地創造」の物語と呼ばれる聖書の箇所を読んでいだきました。これは実際にあった話しというよりも、「神話」であるとか、「物語」であるとか、そのように説明されます。そして、私もこの聖書の箇所をそのように受けて読んだほうがいいと思います。私たちは教会で、また家庭で、そして自分自身の信仰の養いのために聖書の神話や物語から学び、また子どもたちに聖書の神話や物語を語ります。教会はその長い歴史において、聖書の神話や物語を大切に受け継いできたわけです。ブルトマンというドイツの聖書学者は、「神話は、非世界的なものを世界的に、神々について人間的に語ること」であるといいました。平たく言うならば、神話は私たちに真理とは何かを伝える表現方法であるということです。では今日の天地創造の物語、聖書の創造神話は、私たちにどのような真理を伝えているのでしょうか。この宣教では、聖書の創造物語から、人とは何であり、人はどのように生きていくべきなのか、そうしたことを聖書に聞くことができればと思います。

そこで、今日は主に2つのことに触れたいと思います。その2つとは、結論的に申し上げますと、一つは、人間というものに与えられた尊厳についてです。そして、もう一つは、人間とはひとりで生きる存在ではないということです。まず、人間に与えられた尊厳ということですが、『創世記』1章4節には次の言葉がありました。「神はその光を見て、良しとされた」。この神さまの「良し」は、今の4節にはじまり、創造のわざを続けられる中で繰り返し語られ、そして人間が創造された6日目にも神さまはご自身が造られたものをすべてご覧になって、1章31節「それは、はなはだ良かった」と語られています。人とは、何でしょうか。聖書は、人とは造られたものであることを語ります。それも「良し」として、しかも「はなはだ良し」と言われて造られたものであることを語るのです。今、聖書の語る創造物語を信じることができなくても、人は造られたものであるという事実には変わりは無いでしょう。自分で自分を造った人はおりません。実際、科学的に言えば、細胞の塊に過ぎず、いつしかまた焼かれて文字通りちりに帰っていく人間は、しかし、聖書によれば、神のかたちに神が良しとしてその一人ひとりを造ったと言われる存在です。ですから、人は造られたもののすべての中でも、やはり特別な存在であると聖書はいうのでしょう。人間の尊厳は、その人間自身に根拠があるのではなく、この神のかたちに造られた者としての尊厳です。つまり、その人が何をしたから偉いとか、そうでないとか、そういうものではなく、人間はまずはそのままで、その存在自体がすでに掛けがえも無く大切であることを聖書は私たちに伝えているのです。

そして「神のかたち」という言葉は、1章26節に出てきますが、それは神さまと深い関わりを与えられた者として私たちはその命を与えられている、ということです。今、自分の命が大切だと思えない。生きる意味も、生き甲斐も感じられない。そう思って生きている人は少なくないでしょう。自分に与えられた命の意味を、誰もちゃんとは教えてくれないのです。あるいは、競争社会のますます激しい時代です。誰も「あなたが必要だ、掛けがえの無い大切な存在だ」、そう言って温かく迎えてくれる人間関係は、そう簡単には見つからないのです。冒頭の話しではありませんが、もし誰かが今日人生に行き詰って生きていくことができなくても、ただ社会の中で忘れ去られてゆく関係だけがあるのが、私たちの現実というものかもしれません。そういう実際の生活の中で、どこで私たちは自分の存在に対する「良し」の声を、自分の人生に対する「良し」の声を、聞くことができるのでしょうか。聖書の創造物語を、単なる「おはなし」として馬鹿にすることは簡単です。しかし、ではその「良し」の声を他に聞くことがなかなかできないというのも、また私たちの現実ではないでしょうか。人生には、順調な時ばかりがあるのではないでしょう。いや、むしろ、私という存在そのものを揺さぶる逆境の時は多いと思います。調子のいい時は人を見下し、駄目な時には人生を悲観して、変に浮いたり沈んだりしながら生きている。そういう私たちに、今日も神さまの「良し」が変わらず語られているということ、そのことの意味の深さを少しでも心に留めたいと思いました。そして、この神さまの「良し」の言葉は、決して当たり前でない、聖書に教えてもらわなければ分からない、有り難い真理であることを覚えたいと思います。

そして、最後に少しだけ、もう一つのこと・・・、人はひとりで生きるものではない、ということを覚えたいと思います。先ほど神さまは人を「神のかたち」に造られたということに触れましたが、この「かたち」とは、さらに言えば、人は神さまと人格的な関係に生きる存在であるという意味を持っています。人格的な関係・・・、それは他の造られたものには無い、唯一、人間だけに与えられた特別な神さまとの関係です。人は、神さまからの語りかけを聞くことができます。そして、その呼びかけに応答する歩みの中で、人はまことに人とされていくことを創造物語は私たちに伝えているのです。そして、その与えられた人格的な関係は、「神のかたち」に似せて造られた人と人との間にも働くものです。『創世記』2章にある、もう一つの創造物語には「人がひとりでいるのは良くない」との神さまの言葉があり、人に「ふさわしい助け手」を神さまが与えられた物語が記されています。つまり、人は、人と人との間に生きる者であることが示されているでしょう。私たちは隣を生きる人に語りかけます。そして、隣を生きる人の言葉に耳を傾けます。そうした応答する関係の中で、互いの存在に対する「良し」の声を聞き、まことに人として生かされていくのでしょう。宣教の冒頭でお話ししました新聞の連載記事の、人の絆とは、決して、血縁や地縁に限らず親身になって話しを聴いてくれる誰かとの間に起こされるもので、人はその誰かを与えられるとき、その命に生きる力を得るのではないかとの言葉は、まさに、聖書の語る「ふさわしい助け手」を思い起こさせるものでした。私たちの社会は、これからますます孤独の「弧」を生きるような、そうした時代を迎えるのでしょうか。聖書がこれまでずっと語り続けてきた人間という存在に対する真理を、つまり、人はひとりで生きられないし、生きてはいけないという真理を・・・、闇でなく、「光あれ」との言葉をもってこの世界は造られたという真理を・・・、今、この時代にこそ、真剣に受けなければならないと感じるのです。

(森 淳一)

2011年1月9日(日)主日礼拝 宣教要旨

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