今週7月15日は、名古屋教会の創立56周年の記念日です。記録によりますと、56年前のこの日、ハロウェイ宣教師宅で教会組織が行われ名古屋教会は「教会」としての歩みを始めました。今、私たちが集っています今池で礼拝が行われましたのが、同じ年の12月28日。そして現会堂での礼拝は、翌1953年4月17日のイースター礼拝がその最初でした。これまでの56年の歩みは、単なる人の集まりではなく、「教会」として、「キリストのからだ」として、その時々に、神さまが私たち一人ひとりを呼び集め、その「からだ」の大切な一人としてこの群れに加えてくださいました。それはもう何百人の方々が・・・、過ごした時代や時間の長さ、また役割などは違いますが、しかし聖書を読むとき、お互いは神さまに呼び集められた者同士であるということは明らかです。私たち教会がこれからもそうした出会いを大切に、この地にあって共に聖書からキリストにあるまことのいのちをいただき、そのキリストを証ししていく働きを地道に担い続けていくことがゆるされればと思います。
名古屋教会の『教会組織50年記念』誌を、読み返しておりまして、何人かの方がこの会堂の上に建てられた十字架の塔のことを書いておられました。その中の一つ、原昌子姉の短歌をお詠みします。「今池に 高くそびゆる 十字架を 仰ぐわが身に 幸せありて」。「十字架」をこの地に高く掲げ、この「十字架」のもとに集められた私たち・・・。「十字架」のもとに集められることの意味を思いました。原姉の短歌を引き合いに出して申し訳ありませんが、もう一首。「今一度 小さき心の わが身をも 用いたまえと 祈る喜び」。「十字架」とはイエスさまが私たちを愛し抜いて、仕え尽くして生きてくださった、その結晶のような出来事です。その「愛」を受け、学び、生きるように、私たちをその「十字架」のもとに呼び集めてくださったのではないでしょうか。原姉は、証しの中で池田先生のお母様がなさっていた教会の庭の草取りの話を出されながら、自分もそのように、言ってみれば、隠れた働き、地味で目立たない働きの中に喜んで仕えていく者とされたい。そのような主旨のことを書いておられました。この宣教を準備しながら、今、同じように、この教会に「仕えて」働いてくださる多くの皆さんのことを思い浮かべます。
今朝の『ガラテヤ人への手紙』ですが、その「教会」ということを考えるとき、また「信仰生活」ということを考えるとき、理想は理想としてあるのですが、やはり、人間というものの弱さ、罪深さでしょうか。私たちの陥り易い過ちについて、この手紙を書きましたパウロという伝道者の言葉がありますので、聞いていきたいと思います。まず、今日の聖書の箇所ですが、皆さんはどのようなことをお感じになられたでしょうか。もちろん、それぞれにお感じになることは違うと思いますが、たとえば、20〜21節と22〜23節を読み比べながら、ある人は肉の働きの項目を目にしながら、自分の罪を改めて感じる機会となったり、また別なある人は御霊の実の項目を見ながら、信仰によって人間的にも成長し立派になってきた自分というものを誇らしく感じたりするかも知れません。けれども、聖書が言う「信仰」とは、どうも人生修行のようなことと直接の関係はないようです。もちろん、だからと言って「何でもいい」と言うことではありません。「信仰」とは「生き方」のことですから、目に見える部分でも変えられていくことは多いでしょう。しかし、ここで申し上げたいことはその事柄の中心的なことです。
今日の箇所で、パウロはそうした問題を取り上げています。キリスト教とは、何か修行を積むような宗教ではなく、最初から終わりまで神さまから一方的に与えられる愛の中に生きる生き方のことです。「十字架」に表された神さまの、イエスさまの愛に、あの徹底した愛に生かされることです。ガラテヤ5章17節「なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる」。これは、私たち人間の「肉」の現実です。「自分でしようと思うことを、することができない」のです。どんなに意志が強くても、その行いが素晴らしくても、私たち人間の力だけでは「肉の欲するところ」に打ち勝つことはできない・・・。いい加減に言うのではありません。パウロという、一時は人間的にもその「行い」を、「律法」を、命を賭けて守り生きることを誇りとした男の言葉だからです。「行い」を「誇る」なら、自分も誇って生きることができると自信を持って生きた人の言葉だからです。けれども、そのパウロが人間の行い、その力ではどうしようもないことがあることに気づく・・・、「わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」(ロマ7:19)。そういう自分に、人間の限界に、「律法」の壁に、ぶち当たった人の言葉です。
この手紙が宛てられたガラテヤ教会は、当時、教会を分裂させかねない大きな問題を抱えていました。それはもともとギリシヤ人をはじめとする異邦人の多い教会に、ユダヤ人クリスチャンで「律法」を、つまり「行い」を重んじるグループの人たちが入り込み、「肉」の思いや「罪」から解放されて生きるには、今の旧約聖書に書かれている「律法」を守って生きることが大切だと主張していたからです。しかしです。人の「行い」は、それが出来る人とそうでない人の間に溝を作り、出来ない人を切り捨てていくことにつながるでしょう。そして何よりも福音の中心である、あのイエスさまの「十字架」の出来事を無にしてしまうことにつながっていくからです。パウロは3章の1節から3節で、そのことを強く警告しているのです。「ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか」。彼はここで「肉」から解放してくれるはずの「律法」も、「肉」と変わらないものとして位置づけ、「律法」によっては「罪」から解放され得ないと語るのです。
では、私たちはどうすればいいのでしょうか。やはり、神さまから恵みによって一方的に与えられる「愛」をいただくことなのです。神さまこそが「肉」の現実から私たちを解放してくださる力を持っておられるのです。5章16節「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」。「御霊」、つまり聖霊とは、人間の力、業績、修行などのことではありません。人間の内から湧き上がるものでも、人間の努力で手にするものでもありません。それは、ただ外から、神さまから来るものです。そして、この「御霊」、神さまの霊に従って歩むということは具体的に22〜23節に書かれていることです。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない」。神さまから来るものをいただいて歩むとき、私たちはまさにこうした「実」を結んでいくことができる。「肉の欲を満たして」歩むことはないのです。そして、大切なことは、このような実は、私たち肉の力によるものではなく、神さまがしてくださったということなのです。ですから、愛や平和を行うことや、また寛容や善意などの優しい気持ちを持つことが、神さまに救われる条件ではありません。あるいは、自分には立派な行いや人間性があるから、信仰的にも特別な存在であるなどと誇り、威張るようなものでもありません。愛、喜び、平和など、すべて良い実は、神さまが御霊の働きとして私たちに与えてくださったものだからです。
クリスチャンには、誇るものは何もないのです。もし誇るとすれば、それはイエス・キリストの十字架だけです。6章14節「しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない」。人間的にみれば、頼りにならない惨めで悲惨な十字架をこそ誇る。しかし、それはこの世の人間の肉なる現実では到底乗り越えることのできない「罪」と「死」の現実を打ち破るものとして、あの「復活」の出来事が証ししているように、神さまの「よし、然り」という一方的な宣言が、あのイエスさまの「十字架」に与えられているからです。私たちは、人生という旅の中で自分の無力さを感じるときがあります。しかし、そのときにこそイエスさまの十字架を誇りたいと思います。「肉」の中途半端で限りある力などではなく、「罪」と「死」にさえ打ち勝つまことの力です。名古屋教会の57年目の歩みも、神さまに呼び集められたすべての方々と共に、十字架に表されたイエス・キリストの福音に与り、この福音を宣べ伝え続ける群れでありたいと願います。
(森 淳一)