愛を伝える

16わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。 17神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。                            ローマ人への手紙1章16〜17節

さて、今日は「父の日」です。ご存知のように「父の日」も、「母の日」と同じく教会からはじまった日です。今日の「父の日」のように、教会からはじまった日はいくつかありますが、5月の第2週目の「母の日」、そして6月の第2週目の「子どもの日・花の日」と言ってみれば「家族」に関係した「日」が続きますので、一つにまとめて「家族の日」として礼拝をささげている教会もあるようです。家族で、お互いを覚えて日ごろの感謝を表すことは大切なことでしょう。今、「お父さん」というと、その存在感があまり無いような言われ方をすることもありますが、今日は(も?)、ぜひ、お父さんに感謝を表す時となればと思います。けれども、特に日本で「父の日」や「母の日」はあっても、教会ではじまったことの意味、つまり、その精神、心、と言ったものは、十分には受け継がれていないのかも知れません。

旧約聖書に「十戒」という、有名な聖書の言葉があります。その教えの一つに、「あなたの父と母を敬え」という戒めがあります。「父の日」も「母の日」も、その精神は、例えばこの聖書の言葉に深くつながっているものです。旧約聖書の当時、「神の民」と言われたイスラエルの人々は、「家族」と言うとき、血のつながったお互いという意味と同時に、宗教的につながったお互いという大切な意味を持っていました。家庭における宗教教育は、父母の重大な責任であり、親を敬い従うことは、つまり、神さまを敬い従うことに直ちに結びつくことでした。今、日本で「家族の問題」・・・、親が子を虐待し、子が親に暴力を振るう。「家族」というとき、「血のつながり」だけの事しか見えていないというのなら、そのつながりはまことに問題の多いものではないでしょうか。「夫婦」が本当に「夫婦」となっていくように、「家族」が本当に「家族」となっていくとはどういうことなのか。聖書の語る「家族」に関する教えに、私たちの社会はもっと耳を傾ける必要があるのではないでしょうか。長年、青山学院大学で教えておられた関田寛雄先生は、十戒を通して「親」というものを次のように言っています。「宗教教育を責任として負うところに、両親の権威はあります。親は子どもに顔を向けるだけでなく、まず、子どもに背中を見せて、神の慈愛と峻厳の前にひれ伏すところにこそ、親としての権威が生まれてくるのです」。神の愛は、親の背中を通して伝わっていくような・・・、例えば、そのような愛ではないかと思わされることもありますので、こうした言葉に改めて、大切なことへの気づきが与えられるように思います。

今朝は、宣教題にも致しましたが「愛を伝える」というテーマで、神さまの愛を伝えるとはどういうことなのか。また、「子どもに背中を見せて」という言葉もありましたが、「伝える」と言うけれど、一体、何が本当に伝わっていくことなのか、そうしたことを考えることができればと思います。

そこで、先ほど少し触れました「子どもの日・花の日」のことから話したいと思います。この日も教会からはじまった日です。この日の内容は、子どもたちが神さまに従う生活をどのように学ぶことができるか考えまして、今から150年以上前にアメリカの教会でお花を用いたプログラムを行ったのがはじまりと言われています。この日は、みんなで教会に集めたお花を病気の人の所などに届けます。こうしたプログラムを通して子どもたちは頭だけでなく、人を愛するということがどういうことかを、からだ全体を使って学んでいくことが出来ると考えたわけです。イエスさまが私たちに教えてくださった愛は、ただ頭で考えるような愛ではありませんでした。それは実際に、生活していく中で具体的に人を愛していくことでした。そして、もちろん、人を愛することは特別な日だけすることではなく、今日わたしに出来ることを少しずつでもしていくことでしょう。日曜日、礼拝で神さまのお話を聞く、神さまの愛を学ぶ、そうしたら今度は、からだ全体で具体的に人を愛する働きをしてみることは大切です。そして、それは普段の私に出来ること、例えば、お花1本の小さな愛を行っていくことが大切でしょう。

けれども、愛を伝えるということを考えますとき、伝える側の「親」であるとか、「大人」の方が、実はこの愛を知っていくことが非常に難しいことなのかも知れません。大人になると、いろいろなものを身につけていきます。知らないことも少しずつわかるようになります。様々な経験は、人を賢くも強くもするでしょう。お金のような目に見える力を手にすることもあるでしょう。「大人になること」、それ自体は大切なことです。いつまでも、「子ども」では駄目です。問題は、大人になることによって手にした力をどう用いるかでしょう。大きくなることで、失われてしまうものもあります。人間の力が逆に、大切なものを見失わせることもあります。その用い方によっては、1本の花を通して表れる素朴な愛を潰してしまうことにもなるのです。

今朝の聖書の箇所、ローマ人への手紙1章16〜17節は、この手紙全体の主題を告げる最も重要な言葉と言われています。ここにも、神の愛とは何かが書かれています。16節「わたしは福音を恥としない」。この手紙を書きましたパウロは、なぜ、「福音を誇る」と肯定的な表現ではなく、「恥としない」と否定的な言い方をしたのでしょうか。それは、「福音」に逆らい、「福音」に耳を貸そうとしない世界、それを憎み恥じる人々に対するパウロの断固とした信仰の告白とも言われます。パウロ自身、かつては「福音」に逆らい、それを信じる人々を激しく迫害した人でした。今の世も、そして、当時の世も、この世にとって「福音」そのものである「十字架のキリスト」はまことに愚かなものであり、人々の躓き以外の何ものでもありませんでした。目に見える人間の力が「誇り」とされ、賞賛されるこの世界の中で「福音を恥としない」生き方は簡単なことではなかったでしょう。けれども、人間の目には愚かと見える福音こそが、16節後半「それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力である」と言うのです。「神の力」とあります。「力」とは、「デュナミス」といい、ダイナマイトの語源となった言葉です。つまり、それは小さな力などでは決してない。愚かでも、価値のないものでもない。この世の力では、どうにも出来ない「罪」と「死」さえも破壊するまことの「力」です。しかし、この「力」は、この世のものを通しては、言ってみれば、「大人」の世界では、「子どものように」ならなくては見ることのできない世界なのです。

そして、17節の言葉ですが、これはあの宗教改革を導いたマルチン・ルターの話しを通して触れることもできるでしょう。ルターは、はじめこの17節の言葉の意味がよくわかりませんでした。彼は17節の「神の義」とは、神さまは正しい方で、同じように人間も正しい人だけが神さまの前に立つことができる、そういう意味の言葉だと思っていました。けれども「福音」とは、あの十字架のイエスさまの罪の贖いによって、まず人間側の条件に関わらず、すべての人の罪が赦されることの良き知らせでした。ある日、ルターは「神の義」とは神さまは正しいということが言いたいことではなく、義しい神さまが、その義しさで私たちをも義しい者としてくださる、義しい者のように神さまの前に立たせてくださる、という意味であることに気がついていったのです。ここに、宗教改革で有名な「信仰のみ」という、私たちの教会の伝統も生まれました。ルターは、大人になって、いろいろ身に付けてきたものが、かえって神の愛をわからないものにしていることもあることに気が付いていったのかも知れません。

「神の義」は、ただ「福音の中に」のみ啓示されます。この世のどんな力や知恵も、決して及ぶものではありません。今、目に見えるもの・・・、例えば、お金万能と思われている時代の只中にあって、「伝える」ということ、教育の問題なども、お金さえあれば何でも出来ると考えられているのかも知れません。けれども、ただ神の恵みによってのみ、つまり、この世の、人間の力ずくでは伝えられないものがあることに、見えないものがあることに、まず大人の私たちが気づかなければならないでしょう。愛することや、信じることなど、人として、ぜひ、伝えたい・・・、そう願う事柄であればあるほど、実は、人の力で伝えることのできない本質を持っているのです。「父の日」、血のつながりのことだけを言うのではないでしょう。信仰の、また、人生の先輩方から、「背中を通して」受け継いだものを、また次の世代の人たちに伝えていくことができればと思います。子どもは、「言われたように」ではなく、「されたように『する』ようになる」と言われます。愛された子は、愛する子になる。神の愛に生きる、真摯に生きようとする人々を見て、やはり、そこから何かが伝わっていくのではないでしょうか。主にあって、お父さんに、また、神さまの愛を伝えてくれるお一人お一人に心から感謝したいと思います。

                              (森 淳一)    

2008年6月15日(日)主日礼拝 宣教要旨

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