最近も少年による考えられないような事件が起こり、大人の犯す犯罪以上に受ける衝撃が大きいせいでしょうか。ひどく心の痛む、何かこの時代や社会の希望の見えない、寒々とした空気ばかりを感じてしまう今日この頃でもありますが、今年の1月15日に掲載された朝日新聞の「天声人語」に、東洋大学が全国から募った「現代学生百人一首」の紹介があり、それを読んだ「天声人語」の著者が「この国も、まだいけそうだと少し安心した」と書いていた言葉が目に留まりました。実際、その歌を詠んでみますと、大人の私たちが思っている以上に、今の若い人たちは家族に対する思いやりや、温かな観察眼、柔らかな視線を持っていることに気づかされます。その歌が載った「天声人語」の記事の一部を、ご紹介したいと思います。
「東洋大学が全国から募った第21回『現代百人一首』である。中高生らが寄せた約6万首から100首が入選した。『両親の働く姿に胸打たれそっと終わらすマイ反抗期』中3・樋口絢美。『ほうれんそうのおひたし最近水っぽい握力落ちた母の細腕』高3・千葉幸。『おじいちゃんみんなの話題と違うけど私はちゃんと聞いてるよ』高3・岸友佳里。・・・精いっぱいの愛情表現だろう。三十一(みそひと)文字の受け皿を得て、心底の優しさが紡ぎだされたかのようだ」。いかがでしょうか。実際、端から見ているよりも、話してみるとしっかりしたことを考えていたり、先ほどの歌のように、こころ温かな思いを持っている子たちがたくさんいることに気づかされます。そして、「子どもの問題」を考えるときに、それは子どもだけの問題ではなく、むしろ「大人自身の問題」と言っていいものですから、私たち大人の責任は、やはり重大です。私たちは次の時代を担う子どもたちに何を受け渡していくのか。特に信仰を与えられたクリスチャンとして「無くてならぬものは多くない。いや、ただ一つだけである」(ルカ10:42)と教えてくださったイエスさまの、「ただ一つ」を、それは例えば、愛することや信じること、人を思いやることやいと小さき者と共に生きることなど・・・。そのような生きる上での知らしめられた神の「真理」と言ったものを受け、またその「真理」を伝えていくことができればと思います。
今朝の聖書の箇所も、そうした人間の知恵や経験によるものではない。まさに信仰を通してこそ、与えられた神の「真理」を受けることによってこそ、起こされる業の一つ、憎しみあるところに愛をもたらす歩みです。それは今朝のテーマで言えば「執りなし」ということですが、少し難しい言葉で言えば「和解」ということです。この「和解」というのは、聖書の最も大切な教えの一つになっています。けれども、人間の力や大人だったら誰でもできるというようなものではない。やはり、まことの「和解」には、まことの「愛」なる神の愛がそこに現れてこそ起こる働きです
しかし、この「執りなし」ということ、これは信仰者にとって聖書から教えられる務めであるはずなのですが、いつもできないのです。何十年のクリスチャンであろうと、牧師であろうと、出来ることが当たり前ではありません。この世界には憎しみや争いがたくさんあります。憎しみあるところに愛をもたらそう、争いあるところに平和をもたらそう。そう願いながら、実際にはできないのです。それどころか自分でも人を憎み、執りなすどころか一緒になって悪口を言い、和解どころか分裂の原因を作っていることすらある。後になって後悔してみたところで、もう遅いということもある。いつも無力さを感じながら祈るしかない、そう思わされるのです。けれども私たちがまず為すべきは、祈ることだと思います。たとえ私たちが自分の無力さを感じても、イエス・キリストが執りなす力を与えてくださる。イエスさまが私たちに代わって、憎しみと争いの絶えないこの世界を今も執りなそうとしてくださるからです。
実際、私たちの力だけで憎しみを愛に変えることなどできるでしょうか。それは私たちの能力の問題、つまり、出来る・出来ないをはるかに越えた問題ではないでしょうか。ですから聖書も、私たち自身の力で乗り越えることや、その問題の解決は人間の知恵や経験、能力にかかっているなどとは一切言わないのです。そのことすべては、イエス・キリストにかかっている。今朝の「ピレモンへの手紙」が、その短い手紙の中で、どうして何度も「キリストにあって」とか「主にあって」という言葉を使うのか。それはピレモンに対する「和解」の願いを、パウロは「主にあって」お願いする以外に道のないことをよく知っていたからではないでしょうか。憎しみを愛に変えるには、イエスさまの生涯とあの十字架の出来事を心に深く刻む他はない。主の私へのもったいないほどの愛を思うこと無しに、「和解」することも「執りなす」ことも、人間にはあり得ないことです。
今朝の聖書の箇所でパウロも主人ピレモンに対して、その奴隷であるオネシモを「執りなそう」としています。詳しい事情は分かりませんが、奴隷オネシモにしてみれば自分の自由を奪って拘束する主人ピレモンを愛することなどできなかったでしょうし、また逆に、主人ピレモンにしてみれば、反抗的で家に不利益をもたらす奴隷オネシモは憎たらしい存在であったのかも知れません。この憎みあう2人の間に立って、パウロは執りなそうとしているのです。そしてパウロが取った方法は先ほど触れましたように「キリストにあって」、「主にあって」ということ、つまり、イエス・キリストを指し示すということでした。17節「そこで、もしわたしをあなたの信仰の友と思ってくれるなら、わたし同様に彼を受け入れて欲しい」。お互い、人間の力ではできないかも知れない。けれどもキリストにあって、キリストにある信仰のゆえに、互いに許し合えないだろうか。パウロは、そう語りかけるのです。
パウロのこの「執りなし」ということを考えますとき、幾つか学ぶべきことを示されます。その一つは、執りなしは神さまの前で起こること、そこから神の前に立つお互いという視点が大切だということです。この世界だけの、人間の間の関係だけを考えれば、主人と奴隷の間を執りなすことなど、到底できることではありません。しかし、私たちは互いに神さまに赦され愛された同じ人間同士として、命の価値に違いはありません。互いに尊く、掛け替えの無い存在です。実際にパウロはピレモンに向かって、そうした存在としてオネシモを受け入れるよう勧めているのです。16節「しかも、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上のもの、愛する兄弟としてである。とりわけ、わたしにとってそうであるが、ましてあなたにとっては、肉においても、主にあっても、それ以上であろう」。「主人」であるとか、「奴隷」であるとかを越えて、まずお互いは神さまの前に立つ人間である。神さまの前ではお互いは兄弟姉妹である。そのことを認めていくとき、人間の間の関係だけを思っては起こり得なかった「和解」という出来事が起こされていくのでしょう。
この世には、見せ掛けの和解や仲直りといったものが多いかも知れません。「キリストにあって一つとされる」ということは、決して見せかけの、表面的なことではなく、内容の伴うことです。つまり、聖書は力の強い側の一方的な思惑や、あるいは互いに都合の悪いところは隠して、ただ表面的なところで「仲良くしろ、一つになれ」と言うのではありません。主人と奴隷の関係を越えて、つなげられていくことや、パウロもピレモンに対して18節「もし、彼があなたに何か不都合なことをしたか、あるいは、何か負債があれば、それを私の借りにしておいてほしい」と、オネシモがピレモンに対して負っているものがあるならば、その問題が解決されるように、私パウロがその責任を負って謝るべきは素直に謝り、出来うる限りの償いをしたいと申し出ているのです。このこともキリストにある執りなしの大切なことでしょう。すべての命が、神さまの前に掛けがえのないものとされる。まことに人として大切にされる。そこに本当の和解が起こされていくのです。今週、私たちも、この執りなし、和解の働きを神さまから分けていただき、まず身近なところで、そして私たちにできることがあるなら誠実に、主のご用にお仕えできればと願います。
(森 淳一)