今朝のヨハネの第一の手紙3章1節からの箇所には、「悪魔」という言葉が何度も出て参りました。「悪魔」と聞いて、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。あるいは、皆さんにとって「悪魔」とは何でしょうか。ある人は映画や小説などに出てくるような、そら恐ろしい何かであったり、あるいはアニメに出てくるような黒い服を着て、しっぽが生えていて片手には小さな槍を持っている、そんな少し可愛い悪魔かも知れません。それぞれにイメージする悪魔があるのでしょう。聖書には今朝の箇所以外にも、いろいろな所に悪魔が出てきます。イエスさまが荒野で、悪魔の誘惑にあわれた物語は有名です。しかし、今朝の箇所、ヨハネの第一の手紙3章に書かれています悪魔は、私たち人間と深く関係しています。関係していると言いますよりも、私たち人間のある人たちが「悪魔の子」であると言うのです。つまり、先ほどの、たとえば私たちがイメージするような人間の外側に悪魔という存在がいて、外側から私たちと関わっているというよりも、ある人は悪魔そのものであるというのです。10節には次のようにありました。「神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである。すなわち、すべて義を行わない者は、神から出た者ではない。兄弟を愛さない者も同様である」。もう何年も前のことでしょうか。自分の生まれてくる子どもに「悪魔」と名前を付けようとして、認められなかった親もおりました。何を考えているのかと思いますが、親は生まれてくる子に「悪魔」という名前から受けるであろう人生の様々な困難を克服してたくましく育って欲しい。だから、この名前を付けるのだと説明していました。ひどい話しです。普通、誰も自分のことを悪魔とは思っていないでしょう。親の勝手な考えで名前を付けられる子どもは可愛そうです。
けれども、こういうことはあるかも知れません。自分のことと言うよりも、他の人を見るとき、その人のことを悪魔と感じることは皆無とは言い切れないでしょう。いや、皆無どころか他の人に向かって「悪魔」だの、「悪人」だの、「滅ぶべき罪人」だのと、私たちはそうしたことを思い、そうしたことを言ってきたことはないでしょうか。8節「罪を犯す者は、悪魔から出て者である」。今、水曜日に行われています「聖書の学びと祈り会」では、池田先生のご指導により旧約聖書『ヨブ記』を学んでいます。『ヨブ記』の学びも中盤に差し掛かってきましたが、財産や家族を失い、また自らも病に苦しむヨブに向かって、はじめその痛みや苦しみに心を寄せ、慰めようと集まった3人の友人たちでしたが、ヨブが余りの苦しみや痛みから自らの誕生を呪い、自らの死を神さまに願い、理不尽な苦しみの理由を激しく神さまに問う、そして苦しみをもって自らを攻めるのは神ご自身ではないかと語る。そうしたヨブの言葉を友人たちが聞くに及んで、長い論争が展開されていきます。そして、お互いの言葉は互いにエスカレートし、友人たちは、ついに、一方的にヨブを悪人と決め付けて因果応報の教えによる徹底的した悪人の滅びを語っていくのです。「あなたは罪人だ、あなたは悪人だ!」。しかし、そうした言葉は、ある意味、その長い歴史の中で教会も語ってきたものではないでしょうか。私たちは、他の人が悪人に見えてくる。あるいは一対一の人間関係の中で、直接にも間接にも、また心の中で相手を悪魔と言い、また逆に悪魔呼ばわりされることがあるのではないでしょうか。
福音書のイエスさまの言葉を思い起こすとき、しかし、一方的に相手を裁き、悪魔呼ばわりすることは、私たち人間にゆるされない事と分かります。あの有名な「山上の説教」でイエスさまは「人を裁くな。自分が裁かれないためである」(マタイ7:1)と言われました。もちろん、お互いに何も語らず、批判もせず、黙っていなさいということではありません。人間同士お互いは、罪を犯す不完全な者です。そのことを弁えた上で、互いを理解し合うように努めていくことは大切です。本当の意味で人を裁くことができるのは、完全である神さましかいないとイエスさまは言われるのです。
しかし、そうは言うものの、それでも私たちは心の内に誰かを裁き、「悪人」だの、「罪人」だのと言ってしまうことがないでしょうか。そして、今朝のヨハネの手紙が語ることでは11節「わたしたちは互いに愛し合うべきである。これが、あなたがたの初めから聞いていたおとずれである」、つまり「互いに愛し合う」という教え、その教えを守ることもできない気もします。また、この手紙の1章に書かれていますが、逆に、ではヨハネが言うところの教えを自分は完全に守り自分には罪がないと言うなら、それも自分を欺くことであって、その人に真理はないと語るのです(Tヨハネ1:8)。実際、ヨハネの教会に混乱をもたらした人たちは、自らの罪を否定していたと言われています。彼らは神さまの前に自らの正しさを誇りました。しかし、そのことがまた他者を裁いていくことになったのです。
では、私たちはどうすればいいのでしょうか。それは、3章9節の言葉から「すべて神から生まれた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生まれたものであるから、罪を犯すことができない」。ここで「うちにとどまっている」と訳された言葉は、もともとのギリシア語では「メノー」という動詞です。この言葉はヨハネ文書に好んで使われ、他の文書にはない特別の意味を込められて用いられることが多くあります。たとえば、ヨハネ福音書の有名なイエスさまの言葉「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」(ヨハネ15:5)は、まさに私たちがイエスさまとつながる(留まる)ことによってはじめて、私たちは実を豊かに結ぶことができる。つまり、イエスさまにつながることが神さまの愛をいただくことであり、互いに愛し合う者となることができると強調されているのです。繰り返し今ここでイエスさまにつながっていこうという思いが大切なのです。
イエスさまにつながることなしには、人は実を豊かに結ぶことができない。私たちは愛などすぐに失くしてしまう者でしかないことを、心に留めるべきだと思います。ヨハネでは、罪とは愛なきことです。人間の、自分だけの力で人を愛し続けようとしても、それがどれほど難しいことか。毎日の新聞を開くだけで、私たちはそこに愛がなくそのために起こっている様々な罪の現実を見ないでしょうか。私たちは、ほんの些細なことで人を愛することができなくなります。何か自分の気に入らないことが起きるとき、愛をもって粘り強く人と関わっていくことが如何に難しいことか。それぞれに自らのことを振り返ってみれば、人間の愛など無きに等しいものであることがわかるのです。
もちろん、些細なことではなく、人を愛そうと思っても到底そうすることができない現実もあるでしょう。自分があるいは家族や愛する人が、何か重大な犯罪に巻き込まれれば、それどころではなくなるでしょう。生きる中で、人間には明快な答えが出ない、起こった出来事の意味がわからないということが実に多くあるでしょう。何か耐え難い出来事の中で、誰かを憎んでしまう。そのとき憎しみを越えるもの、それは「愛」以外ないと、たとえ頭で理解したとしても事はそう簡単ではない。実際、自分のこととなれば、そんな簡単な話しではないのです。突き詰めれば、人にはどうすることもできない。人の力のもはや及ばない問題なのかも知れません。しかし、それでも目を背け続けるわけにもいかないでしょう。死刑制度のことにしても、問題は某法務大臣のように思考を停止し「ベルトコンベアー」のように自動的に死刑などの厳罰が処せられることではなく、悩み、迷い、葛藤し、揺れ動き・・・、その中で、み言葉に聞いていく。どんな問題も、それが私たちの歩みではないでしょうか。ですから、今朝の聖書には「神の種が、その人のうちにとどまる」(9節)、つまり、キリストの愛のうちに留まることの大切さが語られているのです。私たちは、悩み、迷い、葛藤し、揺れ動く者です。揺れ動きながら、しかし、大切なことは、動かないもの、変わらないもの、キリストの愛のうちに留まることです。今、私たちはイエスさまの十字架とその歩みに心に留めるレントのときを過ごしています。あの十字架のイエスさまの愛につなげられ、その愛に日ごと生かされていきたいと心から願います。
(森 淳一)