神の言葉に生かされて

1兄弟たちよ。あなたがた自身が知っているとおり、わたしたちがあなたがたの所にはいって行ったことは、むだではなかった。 2それどころか、あなたがたが知っているように、わたしたちは、先にピリピで苦しめられ、はずかしめられたにもかかわらず、わたしたちの神に勇気を与えられて、激しい苦闘のうちに神の福音をあなたがたに語ったのである。 3いったい、わたしたちの宣教は、迷いや汚れた心から出たものでもなく、だましごとでもない。 4かえって、わたしたちは神の信任を受けて福音を託されたので、人間に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を見分ける神に喜ばれるように、福音を語るのである。 5わたしたちは、あなたがたが知っているように、決してへつらいの言葉を用いたこともなく、口実を設けて、むさぼったこともない。それは、神があかしして下さる。 6わたしたちは、あなたがたが知っているように、決してへつらいの言葉を用いたこともなく、口実を設けて、むさぼったこともない。それは、神があかしして下さる。 7むしろ、あなたがたの間で、ちょうど母がその子供を育てるように、やさしくふるまった。 8このように、あなたがたを慕わしく思っていたので、ただ神の福音ばかりではなく、自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願ったほどに、あなたがたを愛したのである。 9兄弟たちよ。あなたがたはわたしたちの労苦と努力とを記憶していることであろう。すなわち、あなたがたのだれにも負担をかけまいと思って、日夜はたらきながら、あなたがたに神の福音を宣べ伝えた。 10あなたがたもあかしし、神もあかしして下さるように、わたしたちはあなたがた信者の前で、信心深く、正しく、責められるところがないように、生活をしたのである。   11そして、あなたがたも知っているとおり、父がその子に対してするように、あなたがたのひとりびとりに対して、 12御国とその栄光とに召して下さった神のみこころにかなって歩くようにと、勧め、励まし、また、さとしたのである。 13これらのことを考えて、わたしたちがまた絶えず神に感謝しているのは、あなたがたがわたしたちの説いた神の言を聞いた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言として――事実そのとおりであるが――受けいれてくれたことである。そして、この神の言は、信じるあなたがたのうちに働いているのである。                     Tテサロニケ 2章1〜13節

1年の節目の時を迎えますと、ようやく思い出したように過ぎ行く1年を振り返ってみるものですが、それぞれに皆さんの心には何が思い浮かんでくるのでしょうか。いっも忙しさの中で走るように時間だけが過ぎてゆき、ゆっくり物事を考えたり、思いを巡らしたりする時間の少ない現代人にとって、時折立ち止まってこれまでの歩みを振り返ることは大切なことだと思います。人は前だけを見て立ち止まることなく歩き続けてはいけないのでしょう。しかし日頃そうなってしまっている私自身の反省も含めて、年の節目の時ぐらいは、そうした事に心を向けたいものです。かってドイツのヴァイツゼッカー元大統領がドイツ敗戦40周年にあたり、その演説の中で述べた「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」との言葉を思い出します。あるいは11月にありました連盟定期総会の中で、日本バプテスト連盟結成60周年の記念礼拝が行われましたが、宣教された西南学院大学神学部の小林先生の言葉の中に、私たちの前には「将来」はまだ見えないものとしてあるが、「過去」は私たちの前に見えるものとして広がっている。少しかっこは悪いようだが、「過去」を、後ろを見ながら前へ歩いていくような歩みが大切なのではないか。そのような趣旨のことを述べておられたのが心に残っています。これまでの歩みを振り返り、今の自分を見っめるような時間と心のゆとりを忘れずにいることができればと思います。そして過去に学び、今をより良く生きることができればと思います。

今をより良く生きるために過去から学ぶということでは、繰り返し聖書に聞き、聖書に学ぶ私たちの歩みは、ある意味ですでにこのことを実践しているということが言えるのかも知れません。けれどもここでもうーつ思いますことば、過去から学ぶと言いましても、また聖書に聞き、聖書に学ぶと言いましても、どのように聞き、どのように学ぶかが同じように大切なことだということです。その仕方によっては、今をより良く生きるどころか過去と同じ過ちを繰り返したり、あるいはもっと的はずれな生き方をしてしまったりすることにもなるからです。今朝は地中海世界にキリスト教を伝道したパウロという一人の伝道者が書きましたテサロニケ人への手紙を読みたいと思いますが、そのパウロもまた、み言葉が人々にどのように聞かれ、どのように受け取られることが大切かということに大きな力を注いだ人でした。そのパウロの伝道者としての歩みから、聖書に聞き、聖書に学ぶ大切な姿勢を改めて心に留めることができればと思います。

このテサロニケ人への第一の手紙は、コリントという町からパウロがテサロニケ教会に宛てて書いたものです。パウロのテサロニケでの働きは、使徒行伝17章に記されています。その記事によりますと、まずテサロニケではパウロの話しを聞いて、かなりの数の人たちがイエスを救い主、キリストとして受け入れたようです。しかし「先にビリピで苦しめられ」たと同様に、ここでもユダヤ人の妬みと迫害に晒されたパウロたちはテサロニケを去らなければなりませんでした。しかしテサロニケのことが心配なパウロは、仲間であるテモテを派遣し様子を探ります。そのテモテがコリントに来ていたパウロのもとに大変に喜ばしい報告をもたらしました。その知らせを聞いてパウロはテサロニケに手紙を書き送ったのです。2章13節には次のようにありました。「これらのことを考えて、わたしたちがまた絶えず神に感謝しているのは、あなたがたがわたしの説いた神の言を聞いていた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言として −事実そのとおりであるが− 受け入れてくれたことである。そして、この神の言は、信じるあなたがたのうちに働いているのである」。パウロはテサロニケの教会の人たちが、自分の語った宣教の言葉を神の言葉として受け入れ、ひどい迫害の後でも教会を支え、信仰生活を続けていることを知って大きな感謝を表しているのです。

人間の口を通して語られる言葉を神の言葉として聞き取る。パウロは、そのとき大切なことは何だと言っているのでしょうか。2章4〜6節には、神さまから福音を託されたパウロが「人間に喜ばれるため」(4節)ではなく、また「人にへつらうため」(5節)でもなく、あるいは「人間からの栄誉を求めるため」(6節)でもなく、福音を語ったことが記されています。つまり、パウロの宣教の動機は人に左右されるものではない。人を土台に形作られるのではない。「神に喜ばれるように、福音を語る」(4節)。その根拠は、神さまにこそありました。では、教会は神さまの方ばかり向いていて、人間関係は冷たいのかというと、そうではありません。上下の関係でもなく、家族としての交わりです。パウロも7節で「ちょうど母がその子どもを育てるように、やさしくふるまった」とか、11節に「父がその子に対してするように」と、ありますように、母と子、父と子にたとえて自分と教会の関係を語っています。私たちお互いは、神の愛によってつなげられた神の家族としての関係です。人間同士の温かい関係も大切ですが、それだけではやはり限られた、部分的な愛でしかありません。人間の愛を土台として立っている教会は、神の言葉を聞き取ることが難しくなるのではないでしょうか。

そして、もう一つ触れたいことは2章2節です。「それどころか、あなたがたが知っているように、わたしたちは、先にビリピで苦しめられ、はずかしめられたにもかかわらず、わたしたちの神に勇気を与えられて、激しい苦闘のうちに神の福音をあなたがたに語ったのである」。人間の語る宣教の業から神の言葉を聞き取る。その時に大切なことは、その信仰ゆえに起こってくる試練に立ち向かう力を与えられるということです。先ほどパウロたちのテサロニケでの伝道のことに触れましたが、それは結果的にユダヤ人の妬みと攻撃を受け、さらには信徒ヤソンの家の教会が襲撃され、パウロたちと共にテサロニケの教会の人たちも苦難の渦に巻き込まれました。しかし苦難における連帯をテサロニケの人々は手にしていったのです。パウロも「神に勇気を与えられ」と述べていますが、もし人々がパウロの言葉を人間の言葉として聞いていたならば、試練を乗り越える力を持たなかったのではないでしょうか。神の言葉と信じたからこそ、試練に耐え、困難に立ち向かう勇気を手にしていくことができたのでしょう。

私たちは、クリスチャンとしてイエスさまに従って生きようとするとき、どうしても避けがたく起こる試練や困難を背負っていかなければならないこともありますし、また人生にはその人の責任でもなく出会ってしまう苦しみや悲しみもあります。この手紙の3章3節でパウロは「あなたがたの知っているとおり、わたしたちは患難に会うように定められているのである」と言っています。つまり、私たちはクリスチャンとして生きはじめたその時から、その人生がイエスさまの十字架と復活の出来事に堅く結ばれたものであることを心に留める必要があるのです。人生に苦しみは避けられません。現実として、苦しみはある。けれどもそれをどのように受けとめ背負うのか、それは「人ひとりの課題であると同時に、パウロは十字架と復活に至るイエスさまの生き様、そしてイエスさまに結ばれて生きる信仰の視点から試練や苦難に光を当てたのではないでしょうか。イエスさまは「自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい」(マタイ16:24)と言われました。その招きの声に応えて歩む道の中に、神の言葉を聞く一つのあり方が示されていると思います。これからの歩みの中でも共に聖書から神の言葉を聞き、その言葉に信頼し、生きる力と勇気を、隣り人を愛する愛を手にしていきたいと願います。

                              (森 淳一)    

2007年12月30日(日)主日礼拝 宣教要旨

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