来たるべき方

2さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、 3イエスに言わせた、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。 4イエスは答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。 5盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。 6わたしにつまずかない者は、さいわいである」。 7彼らが帰ってしまうと、イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめられた、「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。 8では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。柔らかい着物をまとった人々なら、王の家にいる。 9では、なんのために出てきたのか。預言者を見るためか。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。 10『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである。   11バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。 12あなたがたは、あなたがたの父のわざを行っているのである」。彼らは言った、「わたしたちは、不品行の結果うまれた者ではない。わたしたちにはひとりの父がある。それは神である」。 13すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである。 14そして、もしあなたがたが受けいれることを望めば、この人こそは、きたるべきエリヤなのである。 15耳のある者は聞くがよい。 16今の時代を何に比べようか。それは子供たちが広場にすわって、ほかの子供たちに呼びかけ、 17 『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、胸を打ってくれなかった』と言うのに似ている。 18なぜなら、ヨハネがきて、食べることも、飲むこともしないと、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、 19また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する」。                     ヨハネによる福音書 8章31〜47節

子どもたちによって、今朝は3本目のロウソクに火がともされました。クリスマスを待ち望むアドベント・待降節のこのとき、それぞれ自分にとってのクリスマスとは何なのか。そうしたことに思いを巡らすこともできればと思います。クリスマスの出来事の意味は様々に説明されますが、その中の大切なことに難しい言葉で言えば「受肉」(じゅにく)と言われることがあります。神さまが人となってくださった、人間の肉の姿を取ってくださった。それが、「受肉」です。そして、この受肉の出来事が起こったのがイエス・キリストの誕生、クリスマスです。けれども、なぜ受肉は私たちにとって喜びなのでしょうか。それは、神さまが人間の世界に来てくださり、私たちと同じ立場にまでなってくださったからです。しかし、これは当然のことではありません。特に人間の側から言えば、神さまと自由に交わったり、神さまの世界に自由に行ったりすることはできません。

ところが、クリスマスは「受肉」という出来事によって神さまの世界と人間の世界が交わったのです。神さまが私たち人間の世界に入り込んで来てくださったのです。もちろん、それまでも旧約聖書を読めば神と人との信仰による深いつながりがあったことが分かります。けれども、目には見えず具体的にはよく分からなかった神さまが、あの実際に人間の姿を取ってこの世界に来てくださったイエスという方を見れば分かる。「神」とは何かと問われ、何を考え、私たち人間とどのように関わってくださるのか、これまでは漠然としてよく分からなかったとしても、それは聖書が証しするようにあのイエスという方がその言葉と生涯でもって示してくださった方だということです。

そして、最初のクリスマスに起こった「受肉」という出来事は、まさに神さまの「愛」の出来事であった、そのことにも心に留めたいと思います。なぜ、神さまは私たちの世界に、その愛する一人子イエスさまを送ってくださったのでしょうか。それは、先ほども申しましたように、私たち人間と同じ者になってくださるためでした。同じ者となって、この世界の現実、人間の現実、喜びも悲しみも、試練や理不尽な苦しみも受けてくださった。それは、私たちを愛するがゆえです。「愛」の他に、何の理由もありません。そして、「罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練にあわれたのである」(ヘブル4:15)とありますように、私たち人間の罪を、罪なこの世界の現実を引き受けてくださるために、ご自身は罪のないままで、しかし、人間とすべてのことについて同じようになってくださったのです。

さて、今日は「イエスの先駆者」とも呼ばれるバプテスマのヨハネの物語ですが、このヨハネに至るまでの歴史があって、はじめて神の「受肉」という出来事が起こりました。このバプテスマのヨハネの物語を通して私たちはクリスマスの意味を、つまり、神さまが人間の姿を取って私たちの世界に来てくださった意味を知ることができます。そのバプテスマのヨハネですが、おそらくイエスさまも関わりの深かった信仰者のグループのリーダーというべき存在でした。つまり、この世界においてはイエスさまの先生とでも言うべき人です。ところが、イエスさまはやがてその先生ヨハネを越えていきます。今朝のマタイ11章10節「『見よ、わたしは使いをあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるだろう』と書いてあるのは、この人のことである」。ヨハネは、旧約聖書イザヤ書から言うと、イエスさまの先に遣わされる「使い」であり、そして、その使いの後に来られる方こそ、まことに「来たるべき方」、聖書に預言された救い主・メシアだと言うのです。

では、バプテスマのヨハネとイエスさまとでは、何が違ったのでしょうか。イエスさまは、どうして先生であるヨハネを越えた方なのでしょうか。そこで今朝の箇所です。マタイ11章2〜3節にこうありました「さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、イエスに言わせた、『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。この時、バプテスマのヨハネは牢獄にいました。牢獄の中から、「来たるべき方」とはあなたですか、それとも別な方でしょうかと問いかけたのです。このバプテスマのヨハネの問いは、実に深刻な問いでした。彼の人生がかかった問いです。その答えによっては、彼の人生はまことに意味あるものにも、また逆に、虚しいものにもなるものでした。それはヨハネがいま試練の中にあって、自分が信じてきたことと実際に経験してきたことの大きな差に悩んでいたからです。ヨハネの信仰から言えば、もし救い主が来られているのであれば、この世界の問題はきれいに解決され、この世の悪や不正義は滅ぼされ、正しい者が泣くような世界は終るはずでした。

しかし、そう信じてきたヨハネがいま牢獄につながれ、2節の「キリストのみわざ」について伝え聞いたものの、彼が期待する「救い主」とイエスという「救い主」との間に大きな差を感じていたからです。イエスは本当に期待していた救い主なのだろうか。自分のイエスを信じるこの信仰は正しいのだろうか。イエスがまことに「来たるべき方」であるなら、なぜ世界はもっと変わらないのか。なぜ悪しき者が裁かれず、正しい者が虐げられているのか。7節にはヨハネについて語ったイエスさまの言葉「風に揺らぐ葦」とありますが、この時、まさにヨハネは少しの風に揺れ動く悩み苦しむ者でした。しかし、これはヨハネのことだけではありません。クリスチャンとして何か試練や苦しみに出会うとき、私たちも同じような思いを抱くことがあるのではないでしょうか。

バプテスマのヨハネは、大変厳しい人であったでしょう。彼はこのあとヘロデによって処刑されましたが、それは勇敢にも彼が大胆にヘロデを批判したためでした。ヨハネは、すべてのことに容赦なく批判の目を向けました。力ある者は弱い者を踏みつけて平気な顔をし、政治も金にまみれて腐りきっている。あのヘロデ王は欲の塊で、ローマのご機嫌ばかりを伺い、貧しく暮らす庶民の生活のことなど省みたこともない。ヨハネが言っていることは、確かに正しいのです。普通の感覚を持つ人ならば、今も、昔も、この世界はやはり不完全な、罪にまみれ汚れた世界でしかありません。イエスさまも、この罪深い世界を鋭く批判するヨハネを11節前半「あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起こらなかった」、と人間の中では最も偉大な者と評価しています。けれども、それは人間の中ではということでした。11節後半「しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい」。つまり、ヨハネのしたことは確かに正しく大切なことではありましたが、それは人間の限界を示すことでもありました。

では、ヨハネの持つ人間の限界とは何でしょうか。つまり、バプテスマのヨハネとイエスさまの違いは何でしょうか。ある注解者の言葉を借りれば、端的に、それは律法と福音の違いであると述べていました。そうかも知れません。律法という神の掟に従って自らを正し、また、人々に悔い改めを迫ったヨハネも律法の義しさ(ただしさ)においては、この世で最も偉大な者との評価を受けましたが、信仰による恵みの義しさ、神さまの恵みによって義しいとされた人の最も小さい人より、彼はさらに小さいと言われるのです。信仰の義しさに生きる、罪人、遊女、取税人は、ヨハネに勝る義しさに生かされている。凄いことです。イエスさまが語られた福音、救い主・キリストとしての働きは、まさに、この所に現われているのです。

私たちも、この「来たるべき方」、救い主・キリストの到来が意味することを、その恵みと喜びとを少しでも知ることができればと思います。罪な世界を生きる私たち、この汚い現実を背負って生き続けるというのなら、どこかで信仰による恵みの義しさ、神のゆるしの言葉を受けていかなければならないでしょう。罪にまみれた世界、そして、所詮は自分もそうした存在に過ぎない、けれども「まずはそのままであなたは愛されている、もったいないほどに愛されている、あなたが生きていることはあなた自身が思っている以上に素晴らしいことだ」というイエスさまの声を、私たちは聞かなくてはならないでしょう。聖書はイエスさまにこそ、その声が聞こえる。その言葉とその生涯に、私たちは神の愛を知ることができると言うのです。

最後に4節からですが、ここでヨハネはイエスさまからの答えを聞きました。牢獄にいる者の期待からすると、しかし、それは満足な働きには見えなかったかも知れません。5節の言葉は旧約聖書のイザヤ書の言葉で、救い主がこの世界に来られるとき、見えない人が見え、歩けない人が歩け、貧しい人々に福音が告げられる、そうしたことが起こると約束された言葉です。けれども、ヨハネの目には十分ではありませんでした。しかし、そのヨハネの問いにイエスさまは神の力は低く隠れた姿の中で、けれども、すでに来てきることを告げられたのです。隠れた姿、低き姿を取って神の救いのみ業ははじまっている。6節に「わたしにつまずかない者は、さいわいである」とあります。私たちは、この「来たるべき方」の働きに「つまずかない」ことです。イエス・キリストに現された神のへりくだった姿に、つまり、あの十字架に、そして飼い葉おけの幼な子の姿に「つまずかない」ことです。なぜなら、飼い葉おけに生まれ十字架に架けられたイエスにこそ、神の「しかり」が、救い主・キリストが現されているからです。私たちは、神ではなく人間です。完璧ではありません。絶対ではありません。人を愛することにおいてさえ、罪を犯してしまう悲しい存在です。けれども、足りないままで、それでもゆるされて歩むのです。神の国の福音を、あのイエスの十字架と復活に聞くのです。あなたは神の無条件な愛の中に、もったいない程の愛の中に、罪人が、遊女が、取税人が生かされた同じ信仰の義しさの中に生かされているではないか、ヨハネの義に勝る義しさに生かされているではないか。クリスマス、この語りかけを「来たるべき方」、主イエス・キリストに聞きたいと思います。                                (森 淳一)    

2007年11月4日(日)主日礼拝 宣教要旨

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