壷と松明

11さて主の使がきて、アビエゼルびとヨアシに属するオフラにあるテレビンの木の下に座した。時にヨアシの子ギデオンはミデアンびとの目を避けるために酒ぶねの中で麦を打っていたが、 12主の使は彼に現れて言った、「大勇士よ、主はあなたと共におられます」。 13ギデオンは言った、「ああ、君よ、主がわたしたちと共におられるならば、どうしてこれらの事がわたしたちに臨んだのでしょう。わたしたちの先祖が『主はわれわれをエジプトから導き上られたではないか』といって、わたしたちに告げたそのすべての不思議なみわざはどこにありますか。今、主はわたしたちを捨てて、ミデアンびとの手にわたされました」。 14主はふり向いて彼に言われた、「あなたはこのあなたの力をもって行って、ミデアンびとの手からイスラエルを救い出しなさい。わたしがあなたをつかわすのではありませんか」。 15ギデオンは主に言った、「ああ主よ、わたしはどうしてイスラエルを救うことができましょうか。わたしの氏族はマナセのうちで最も弱いものです。わたしはまたわたしの父の家族のうちで最も小さいものです」。 16主は言われた、「しかし、わたしがあなたと共におるから、ひとりを撃つようにミデアンびとを撃つことができるでしょう」。 17ギデオンはまた主に言った、「わたしがもしあなたの前に恵みを得ていますならば、どうぞ、わたしと語るのがあなたであるというしるしを見せてください。 18どうぞ、わたしが供え物を携えてあなたのもとにもどってきて、あなたの前に供えるまで、ここを去らないでください」。主は言われた、「わたしはあなたがもどって来るまで待ちましょう」。   士師記6章11〜18節

さて、先ほどはギデオン協会の早川さんより、ギデオンメッセージをいただきました。ご存知のようにギデオン協会は、中学校や高校、大学、またホテルや病院などで聖書の無料配布の活動を進めておられます。そこで初めて聖書を手にしたという方も多くおられると思いますが、その中にはギデオン協会からいただいた聖書との出会いがきっかけで、今、牧師をしているという方が少なからずおられるというお話しも伺ったことがあります。こうした地道に種をまくようなお働きが、日本の、そして世界の教会の働きを支え、福音宣教の業の一旦を担い続けておられることを思います。

私の手元にギデオン協会が配布しています聖書がありますが、その表紙を見ますと壷と松明のマークが書かれています。これは、7章にありますギデオンという士師がミデアンびととの戦いの際に使った道具です。7章16節、「そして彼は三百人を三組に分け、手に手にラッパと、からつぼとを取らせ、つぼの中にたいまつをともさせ」。ギデオンがミデアンびとと戦うために使った武器が、この壷と松明です。しかし、壷と松明はふつう武器としては使いません。それは普段の生活の中で使われるものです。ところがギデオンは、この壷と松明を用いてミデアンびとの大軍に奇襲攻撃をかけ、彼らを討ち破りました。また、戦いに赴くギデオンの兵士たちは夢の中で大麦のパン一つにたとえられています。7章13節、「ギデオンがそこへ行ったとき、ある人がその仲間に夢を語っていた。その人は言った、『私は夢を見た。大麦のパン一つがミデアンの陣中に転がってきて、天幕に達し、それを打ち倒し、くつがえしたので、天幕は倒れ伏した』」。大麦のパンも壷と松明と同じように、武器ではありません。普段の生活の中にあるものです。しかし、神さまは何か特別なものを通して働かれるというのではなく、私たちの生活のごく当たり前なものを用いて働いてくださるということを知り、このような物語に大きな励ましをいただきます。

またギデオンの兵士たちは、いなごのように数が多いと言われるミデアンびとと比べてごく僅かな人数でした。それでも最初は3万2千人おりましたが、実際、戦いに赴く兵士は300人になっています。これはミデアンびとに比べて無に等しい数でした。もはやギデオンたちに戦いの場で誇れるものは何もありません。何も持たないギデオンは、神さまに信頼する他は無いでしょう。神さまはギデオンたちが自分たちの力で勝ったと思い上がらないように、無に等しいギデオンを用いて戦いに臨まれるのです。ギデオンは不安でしたが、神さまの言葉を信じて従います。もしこれが最初の3万2千人の数であれば、夜そっと敵を囲む作戦など、はじめから取ることさえできなかったかも知れません。不安を抱えながらも、しかし神さまの言葉に従い戦い続けたギデオンは、神さまの約束どおり勝利を手にしました。私たちも壷と松明のように、それはちょうどギデオン協会の聖書に壷と松明のマークが入っているように、聖書を手にしていきたいと思います。普段の生活の中で聖書を手にするとき、神さまの言葉が私たちの毎日に力を与えてくれる。私たちの人生に無くてならない大切なものを備えてくれる。「わたしがあなたと共にいる」というギデオンに繰り返し語りかけてくださった神さまに信頼して、私たちも神の言葉に従っていきたいと思います。

士師記には、「士師」と呼ばれる人々が何人も出てきます。今朝のギデオンをはじめ、デボラ、エフタ、サムソンなどの士師がおります。この人たちも、ギデオンと同じように何か特別な人間というのではありませんでした。どちらかと言えば、生き方のあまり上手ではない人たちです。「士師」とは、もともとの言葉では「ショーフェート」といい、「裁く」という言葉に関連しています。そして「士師」の働きは、その漢字が示しておりますように、外敵に対しては、「士(さむらい)」のように戦い、平時には民の「師(し)」として公平な裁きを行う裁判官のような務めを果たしました。一言で言えば、民を指導するリーダーです。イスラエルの指導者はモーセのあとヨシアが選ばれ、さらに士師たちに引き継がれています。

士師たちはイスラエルの危機に際して、カナンに住む人々との戦いを指導しました。ギデオンが戦ったミデアンびとをはじめ、ペリシテびと、アンモンびとなどです。戦いのイメージの強い士師記ですが、戦うこと自体が目的ではありませんでした。6章24節には「そこでギデオンは主のために祭壇をそこに築いて、それを『主は平安』と名づけた」と書いてあります。新共同訳聖書では、「『平和の主』と名づけた」とあり、神さまとの平和、隣り人との平和を求めての戦いであったことが示されています。そして、その戦いの本当の相手は6章後半に記されていますバアル宗教の神々でした。しかし、なぜ士師たちはバアル宗教と戦ったのでしょうか。単純に他の宗教だから駄目では、現代を生きる私たちにとって、この聖書の箇所から何をメッセージとして受け取っていいのか分からなくなるでしょう。それでは「〜原理主義」と呼ばれる人たちと余り考え方が変わらないことになるかも知れません。バアル宗教の問題、その核心はバアル宗教が力の神だからです。新約時代のコリント教会の問題でもありましたが、この世の力ある者、富めるもの、優れた者が偉くて価値ある存在。反対にそうでない者は価値の無い存在とみなされていたからです。これは現代を生きる私たちの問題でもあります。今、この世界は力ある者、富める者が尊く価値ある存在です。反対にそうでない人は、命の価値の低い人間とみなされています。この考え方は、聖書の教えと反対です。ですから、士師たちはバアルの神々と戦い続けたのです。

さて、イスラエルのリーダーとして立てられた士師たちですが、非常に個性豊かな人たちが選ばれています。しかし、一人ひとりの物語を読むとき、そこには立派で優れた理想のリーダーが描かれているわけではありません。言ってみれば人間臭く欠けも多い、けれども愛すべき人たちです。そして一人ひとり違いますが、人生の様々な重荷を背負った人たちでした。士師の中にはデボラのような女性もいました。士師の時代、女性がリーダーになることなど到底考えられないことでした。しかし、神さまは女性であるデボラこそ選ばれ、民のリーダーとして立てられました。また、エフタという士師もいます。彼の物語は悲劇でした。彼は戦いに際して、神さまに誓った自らの言葉のために最愛の娘を失いました。エフタの娘の話しは、オペラなどの芸術作品になっています。エフタは、愛する娘を失うという悲しみの人生を歩んだ人でした。しかし、神さまはこのエフタをこそ選ばれました。私たちも人生の悲しみや社会にある理不尽な問題に苦しむことがあります。そのとき神さまは私たちの悲しみや苦しみを知り、共にいてその傍らを歩き、大切な働きのために招いてくださるのです。

そして、今朝のギデオンも「大勇士」という呼びかけにはじまる召命を受けていますが、民の指導者としてはお世辞にも相応しいとは言えない人でした。彼は、確かにバアル宗教を信じるミデアンびとの振舞いを憂いていました。けれども、神さまの選びを前に勇敢にそれに応えることができません。11節、「さて主の使いがきて、アビエゼルびとヨアシに属するオフラにあるテレビンの木の下に座した。時にヨアシの子ギデオンはミデアンびとの目を避けるために酒ぶねの中で麦を打っていたが」。彼は酒ぶねの中に隠れていた男です。また15節、「ギデオンは主に言った、『ああ主よ、わたしはどうしてイスラエルを救うことができましょうか。わたしの氏族はマナセのうちで最も弱いものです。わたしはまた私の父の家族のうちで最も小さいものです』」。ミデアンびとの手から民を救えと命ずる神さまの招きが怖くて怯えていた男です。自分の無力さを自覚している男です。しかし、神さまは彼をこそ士師として選ばれました。私たちの弱さを用いて神さまは働かれるのです。

士師記全体を通して受けるメッセージは、神さまの恵みの無限の大きさと人の弱さ小ささです。無きに等しく何の誇るものも持っていない人間を、にもかかわらず、愛してくださり、ご自身の働きのために召してくださる。共にいて有り余る恵みと祝福を備えてくださる。そのことが個性豊かな士師たち一人ひとりを通して語られます。弱く、欠けの多い士師たちを立たせていったのは何でしょうか。それは12節、「大勇士よ、主はあなたと共におられます」。あるいは16節、「主は言われた、『しかし、私があなたと共におるから、ひとりを撃つようにミデアンびとを撃つことができるでしょう』」。「神が共におられる」という事実です。繰り返し語られるこの言葉に不安や恐れを抱えつつも、それぞれのありのままの姿で神さまに従っていったのです。神さまの招きは、今も昔も変わりません。私たち一人ひとりにも、同じようにそれぞれの招きがあり、また神さまが備えてくださるそれぞれの歩みがあります。神さまが共におられると語り続けてくださる私たちそれぞれの人生を、感謝しつつ希望をもって歩んでいきたいと願います。

                                  (森 淳一)    

2007年10月14日(日)主日礼拝 宣教要旨

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