さて、今週8月15日はアメリカとの戦争に負けた62回目の敗戦記念日です。あの戦争が終って、62年という長い歳月が経ちました。今、日本の人口の4人に3人は戦後生まれの直接の戦争体験のない世代です。戦争を知る世代の高齢化が進む中で、今も様々な方法で戦争体験が語り継がれています。8月6日に行われました広島の「原爆死没者慰霊式ならびに平和祈念式」でも、市長による「平和宣言」は、「運命の夏、8時15分」という冒頭の言葉から、詳細な原爆投下直後の人々の惨状と被爆者のその後の過酷な人生を語ることからはじめています。そして唯一の被爆国である日本国政府に、まず謙虚に被爆の実相と哲学を学び、それを世界に広める責任を果たして欲しいと訴えられえました。それは国の指導者の問題であることはもちろんのこと、そればかりでなく私たち一人ひとりの問題でもあるでしょう。ドイツのヴァイツゼッカー元大統領は、ドイツ敗戦40周年にあたってなされた有名な演説の中で「過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目となり、非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすい」と述べています。まず、謙虚に歴史に学び、歴史に聴く姿勢、それが私たちにとって大切なことではないでしょうか。
直接の戦争体験のない世代でも、聴いたり学んだりすることであの戦争を少しは知ることができます。謙虚に歴史に学び聴く姿勢、そのことの大切さを思わされる一つの例かも知れませんが、数年前訪ねました九州・宮崎での小さな出来事をお話ししたいと思います。同じ連盟の宮崎丸山町教会からそう遠くない所に「平和台公園」と名づけられた公園があります。宮崎の観光バスが必ず訪れる名所ということで、私も用事の帰りに立ち寄ったことがあります。一見、何ともない普通の公園なのですが、中に入って少し歩きますと、一つ異様なものがあることに気がつきます。それは「八紘一宇(はっこういちう)」という文字が刻まれた高さ37メートルもある塔です。その塔の真ん中には神武天皇の像と神々と言われる大きな銅像が立っています。塔の下の案内板には「八紘一宇」の説明があり、そこには「世界中が一つの屋根の下、一つの家族となること」とありました。ご存じのように「八紘一宇」という言葉は、太平洋戦争時、アジア侵略を正当化する軍国主義のスローガンでした。そうした言葉を未だに使い続けながら平和の象徴のような言葉にすり替えられて、この公園は観光の名所になっています。私たちは、あの戦争から一体何を学んだのでしょうか。「八紘一宇」という見せかけの美しさを語りながら、実際はアジアの国を力によって支配しようとしてきたのではないでしょうか。未だに「天皇の名」の下に世界を治めようと言うのでしょうか。「八紘一宇」の塔を見上げながら、その時の余りの時代錯誤のバカバカしさと、また恐ろしさを同時に感じたことを思い出します。「天皇の名」のような本当の神でないものにではなく、真の神さまが与えてくださる真の平和を、キリストの平和を、ご一緒に学んでいきたいと思います。
今朝の箇所、マルコによる福音書13章は一般的に「小黙示録」と呼ばれる預言の言葉です。イエスさまが弟子たちに終末、つまり、この世の終わりとキリストの再臨について述べている箇所です。実際そのことが起こるまで、13章5節から今朝の23節までのところでは、しるしとも言うべき様々な苦難や、人々を惑わすうわさが流されるとあります。しかし、そうした事に「気をつけて」、「目を覚まし」耐え忍ぶ者は救われると励まされるのです。そして続く24節から27節のところで「その日には」と、つまり、この世の終わりのとき、キリストは「人の子」として再びこの世界に来られることが語られます。26節「そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗ってくるのを、人々は見るであろう」。ここでは特に「人の子」という言葉に注目してみたいと思います。
この26節に出てきます「人の子」というのは、イエス・キリストのことです。キリストは神の力を託されてこの世界に再び来られ、この世界と宇宙の主となることが描かれています。少し詳しく言いますと、この箇所自体はイエスさまの直接の言葉というよりも、初代教会の信仰の言葉と考えられています。この箇所だけを読むとき、イエスさまは単に強くて恐ろしい神さまというイメージを受けるかも知れません。もちろん、イエスさまは決して暴君のような方ではありません。但し、イエスさまは26節にあります「人の子」という言葉を自分を指す呼び方として好んでおられたようです。そして「人の子」という言葉は、もともとの背景となる旧約聖書、ダニエル書の物語を知る必要があります。では、イエスさまは「人の子」という言葉をどのような思いで使われたのでしょうか。
この「人の子」という言葉が出てくるダニエル書は、黙示文学という一つの文学スタイルによって書かれた書物で所々に不思議な表現が出てきます。例えば、7章には4つの大きな獣の幻の話しがあります。そこには獅子のような獣、熊、豹、そして最後に10の角を持つ獣が出てきます。一見、何のことか分かりませんが、実はその意味ははっきりしています。この4つの獣は、4つの国を象徴しています。そして、この4つの国は歴史的にイスラエルを支配し、苦しめてきた4つの支配国です。具体的にはバビロニア帝国、メディア帝国、ペルシア、ギリシアの4つの国です。このダニエル書が書かれたとき、イスラエルを支配していたのはギリシアでした。しかし、その後支配国はローマ帝国に変わり、イエスさまの時代、またマルコ福音書が書かれた時代に至るわけです。表向きには戦争のないという意味での「平和」な状態はありましたが、しかし、結局、どの国の支配を受けようとも、人間の権力者から与えられる「平和」、上から押し付けられる「平和」というものには限界がありました。
それは、はじめにお話ししましたように、上からの、例えば「天皇の名」の下にある「平和」を考えれば分かります。あの戦争が終るまで信教・思想の自由も、天皇はじめ権力者の意向に逆らわない限りにおいて保障されていた通りです。しかし、上から押さえつけることによっては、本当の平和は来ないと聖書は言います。マルコ13章24〜25節「その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう」。直接には、この世界の終りについて語られている言葉ですが、たとえ太陽や月も永遠のものではないのだから、ましてや人間が作るものがそうであるはずがないと言うのです。実際、先ほどの4つの国をはじめ、この世界で栄華を極め繁栄を誇った国々も歴史の波にのまれいつしか消え去ってしまいました。しかし、それらも所詮人間の作ったものです。「栄華を極めたソロモンでさえ、この花一つほどにも着飾ってはいなかった」(マタイ6:29)。イエスさまの言われるように、この世のものはいつか朽ちゆく消えゆくものでしかありません。人間に「絶対」とか「永遠」などということはないのです。
では、本当の平和をもたらすものは何か。それは「人の子」であると聖書は言います。もう一度26節「そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗ってくるのを、人々は見るであろう」。聖書で使われているイエス・キリストを表すこの「人の子」という言葉には、大切な意味があります。主に2種類の典型的な用法があり、一つは、一人の弱い人間、何も飾るものもない人間としてイエスご自身が自己の苦難を預言する場合です。罪の贖いゆえに十字架で苦しむ救い主としての姿が示されています。そして、それはつまり、平和は上からではなく下から来るということを指し示しているでしょう。そしてイエスさまは、まさにその「人の子」でした。そしてもう一つは、26節の「大いなる力と栄光」を神さまから授けられていると言うことです。「人の子」は、確かに一人の弱い人間です。けれども、永遠なる神さまの前に覚えられたこの一人の人に、神の絶大なる力が隠されているのです。そして、この「人の子」の生き方こそ、神のみ心であり真の平和を世界に作り出す力が与えられていると言うのです。
イエスさまは、まさに「人の子」としての生涯を生き抜いてくださいました。この世において富や権力を持っていたわけではない。弱く、片隅に追いやられた人々と共に生きた一人の弱いただの人間でした。しかし、イエスさまは神さまへの絶対の信頼のもと、私たちのためにすべてを献げ尽くすまで生き抜いてくださいました。このイエスさまの生涯を神さまはよしとして復活させ、天にまで引き上げられたのです。このイエスさまを信じ、従って生きようとする歩みに、「キリストの平和」が私たちにも与えられるのではないでしょうか。永遠なる神に従う一人の弱い人こそが、下からの視点に立ち続ける生き方こそが、この世界を変えていく真の力を持つ。はじめに触れました、広島市長の「平和宣言」の言葉にも、「時代に遅れた少数の指導者たち」は、「未だに力の支配を奉ずる20世紀前半の世界観にしがみつき」世界を核の脅威にさらし続けている、と述べた上で「しかし21世紀は、市民の力で問題を解決できる時代」だと、下からの視点に目を向けています。もちろん、私たち教会は人間の力が問題解決の鍵を握っているとは考えません。しかし、平和は上からではなく、やはり下から、一人ひとりの顔が見えるところから来るということでは、「キリストの平和」に通じるものを感じます。今週も、「人の子」として私たちの一番下に立ち続けてくださるイエスさまから真の愛と平和を教えていただきながら、教会で、またそれぞれの場所で、一歩ずつ神の国の働きに参加させていただければと願います。
(森 淳一)