命のパン

23しかし、数そうの小舟がテベリヤからきて、主が感謝されたのちパンを人々に食べさせた場所に近づいた。 24群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知って、それらの小舟に乗り、イエスをたずねてカペナウムに行った。 25そして、海の向こう岸でイエスに出会ったので言った、「先生、いつ、ここにおいでになったのですか」。 26イエスは答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。 27朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」。 28そこで、彼らはイエスに言った、「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。 29イエスは彼らに答えて言われた、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。 30彼らはイエスに言った、「わたしたちが見てあなたを信じるために、どんなしるしを行って下さいますか。どんなことをして下さいますか。 31わたしたちの先祖は荒野でマナを食べました。それは『天よりのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」。 32そこでイエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである。 33神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。 34彼らはイエスに言った、「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」。 35イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。
                ヨハネ6章23〜35節

さて、早いもので、今年も6月の半ばを迎え、2007年も折り返しを過ぎました。この宣教を準備しながら、私が神学生でした頃、「時」に関するみ言葉をテーマに書かれた文章を思い出しましたので、少しお話ししたいと思います。それは大学の先生が、大学の学報のコラムに寄せていた文章からのものです。当時、テレビで流れていたコマーシャルの一つに、007でおなじみのショーン・コネリーが出演するウィスキーの宣伝がありました。ショーン・コネリーが大事そうにリボンの小箱を持って登場し、おもむろにそれを開けてグラスを取り出し、ウィスキーを注いで飲む。そして、次の言葉がキャッチ・コピーとして画面に流れます。「時は流れない、それは積み重なる」。先生はこのコマーシャルを引き合いに出しながら、次のように書いておられました。「言うまでもなく、このコマーシャルの言葉は、長い間熟成されたウィスキーのうまさをアピールするものである。『時』がそうさせるのである。だが、はじめの『時は流れない』という感覚は、私たちに乏しい。むしろ、日本人の伝統感覚はすべてを水に流し過去のことは不問にするという『流れ去る時』である。しかし、聖書の伝統では、時は『流れ去る』ものではなく、出来事と結びつき、実現するもの、満たされるものと考えられてきた。そこには、うつろいやすい浮世があるのではなく、『時』が積み重なり、熟していく。そうであれば、時は無意味なものではなく、苦しみ、呻き、悩みながらも耐え抜き、望みをもって生きる意味を持ってくる」、このような言葉でした。

「流れ去る時」ではなく、やはり「積み重なる時」として一日一日を過ごしたいと思いました。これまで生きてきたそれぞれの人生を振り返り、自分は何をしてきたのか、自分には何が残るだろうか、そう思うとき、何もない自分を感じるときもあります。もちろん、それぞれに何かをしているのですが、どれほど意味ある時を過ごしているのか自信がないのも確かです。私たちの多くの時間、多くの仕事、それはただ流れ去るものでしかないのかも知れません。先ほどの聖書の言葉、ヨハネ6章27節「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」。永遠の命に至る働きを、「積み重なる時」を覚えて日々を送りたいものです。それは、朽ちる食物のみを求めて生きる生き方からは得ることができないものでしょう。やはり、神さまとの出会いのない人生は、つまり、永遠の命につながらない人生は「流れ去る時」を生きるだけの人生です。

さて、27節ですが、イエスさまの言葉を聞いた人々は次ぎのように質問しました。28節「そこで、彼らはイエスに言った、『神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか』」。「神のわざを行う」という言葉と、27節の「永遠の命に至る朽ちない食物のために働く」の「働く」という言葉はもともと同じ言葉です。つまり、人々は永遠につながる意味ある人生を送るには、どうすればいいかを問うたのです。私たちも同じでしょう。意味ある働きを、価値ある人生を過ごすにはどうすればいいでしょうか。人それぞれに考え、工夫しながら過ごしていますが、実際、なかなか永遠につながるものとして実感するには難しいのも確かです。

では、意味ある人生を送るために、何をすればいいのでしょうか。ユダヤ人は、先ほどの問いをイエスさまに尋ねました。しかし、この問いは律法主義的な考え方です。つまり、自分でよい行いを重ね、業績を上げれば救われると思っていたのです。イエスさまは、その人々に答えます。29節「イエスは彼らに答えて言われた、『神がつかわされた者を信じることが、神のわざである』」。自分で何かをすれば救われる、というのではない。自分の努力で真に意味ある時を、永遠につながる命を手にするというのではない。そうではなく、「神がつかわされた者」、つまりイエス・キリストを信じることが救いだと言うのです。イエスさまに出会っていく、共に生きていく、そのときはじめて生きて甲斐ある人生が与えられるのです。

確かに、いい出会いは私たちを良く変えてくれます。しかし、私たちにはそうした出会いばかりがあるのではありません。数年前に起こりました長崎県佐世保市の小学生同士の殺人事件は、大変に痛ましいものでした。亡くなった女の子も、切り付けた女の子も自分のホームページを持っており、「チャット」と呼ばれるインターネットでの会話が事件の原因の一つだと言われています。少し前、高校生で携帯電話を持っている人が、高校生全体の70パーセントだという新聞の記事に驚いた記憶がありますが、私が子どもでした時とは、今はまったく時代の違う世の中です。しかし、なぜ携帯が必要なのか。もちろん便利ということはあるでしょう。しかし、若い人たちの場合、これはみんなが持つから持つという理由があります。携帯も、インターネットも、人と人がつながる手段です。「手段」であるなら、他の手段、例えば直接会って話せばいいのに、実際にはそうすべき時でさえわざわざ携帯やインターネットを使うことも多いでしょう。便利さの陰に、落とし穴はあるものです。佐世保の事件にしてもホームページには面と向かって話しをする時に、到底はばかられるような酷い言葉の数々が書き込まれ、いじめの対象が生み出されていったと聞きます。人と人をつなぐはずの道具も、使う人間によっては危険なものになります。人と人がつながる。しかし、そこに神さまが共にいてくださらなければ、人だけでは危ないのです。35節「イエスは彼らに言われた、『わたしが命のパンである。わたしに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない』」。そこにイエスさまがいてくださらないなら、私たちは本当には満たされませんし、時には誤った方向にさえ進んでしまうこともあるでしょう。

私たちは、イエス・キリストという命のパンを頂きたいと思います。まず、イエス・キリストを受け入れる。そのとき、私たちは何か人生に虚しい思いや、日々の生活の足りなさから解放されます。何か足りないという人生から、豊かに満たされているという人生に、隣り人と分かち合っていく人生に変えられていきます。他人の目や、世間の目ばかりを気にして、「良い」とか「悪い」とかに縛られる自分からも解放されます。それは、イエスさまという命のパンが、そういう人間の価値判断を越えて、あなたはそのままで素晴らしい、まず生きているだけで素晴らしいと言ってくださるからです。神さまは、一人ひとりの命を大切な掛け替えのないものとしてこの世界に造ってくださいました。そして、一人ひとりをそのままで愛してくださる。神さまは、そのひとり子イエス・キリストを、あなたのためならば十字架につけるほど、あなたを愛しておられる。この聖書が告げるメッセージをしっかり受け取るとき、私たちはまことに意味ある、価値ある命を生きることができるのです。

本日の教会学校の分級では、イエスさまの譬え話から「タラントの譬え」を学びます。その譬えでイエスさまは、他の人との比較の中で私たちの人生が「良い」とか「悪い」とか評価されるのではなく、究極的には、神さまとの信頼ある一対一の関係の中で、任され、預けられた人生をいかに生きるかが問われていると教えています。私たちは神さまの愛を知り、まず自分の命の大切さを知り、また隣り人の命の大切さを知る人生にこそ、まことに意味ある時間が、価値ある人生が与えられていくのです。イエス・キリストという永遠に至る命のパンを頂きたいと思います。今週も、聖書の言葉からまことの命を受けていく生活を共に過ごすことができればと思います。

                                  (森 淳一)    

2007年6月17日(日)主日礼拝宣教要旨

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