主イエスの約束

18わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。 19もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。 20その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。 21わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。 22イスカリオテでない方のユダがイエスに言った、「主よ、あなたご自身をわたしたちにあらわそうとして、世にはあらわそうとされないのはなぜですか」。 23イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。 24わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である。
                ヨハネ14章18〜24節

さて、先日の礼拝は、八王子めじろ台教会から井堀哲さんをお迎えして特別集会を行いました。はじめて教会に来られた方々もいて、多くの皆さんと礼拝を共にすることができ感謝でした。その中にある新来の方ですが、宮崎丸山町教会の関係の方がおられ、事前に丸山町教会の金子千嘉世先生から「どうかよろしく」とのお電話をいただきました。金子先生は、九州にいた頃にお世話になった先生ですが、しばらくご無沙汰しておりましたので、近況などを少しお話しいたしました。相変わらず、お元気な様子で、「そういえば、まだ新婚だった?」と聞かれましたので、「いえ、1年経ちましたから、新婚は終りました」と答えますと、「私は、今でも新婚よ、見習いなさい」と言って大笑いされました。何か、いつも元気をいただき有り難いことです。

その金子先生ですが、地域の子どもたちの「居場所」となることを願って、駄菓子屋「晴れる屋」を開くなど、ユニークな、しかし、地道に福音宣教の働きに仕えておられる姿に励まされます。その駄菓子屋「晴れる屋」ですが、以前、金子先生が次のように書かれていた文章が心に残っていますので、短くご紹介します。「『なんで独りぼっちなの、なんで私は生まれてきたの?』・・・いろんな不安をぶつけて『晴れる屋』に来る子どもたちの姿があります。・・・子どもの心の傷が深くて、慰める言葉を持ち合わせず、何もしてあげられない無力な自分を見せつけられ、落ち込んだり、悩んだり、オロオロ、オタオタした毎日です。そのような中ではありますけれど、ハレルヤクラブ(教会学校)に子どもたちが少しずつ来てくれるようになりました。でも、その喜びもつかの間、よく見るとそこには一番問題を抱えて心が荒れている子どもたちがきていません。教会学校の人数を増やすことに心が捕らわれていて、一番慰めが必要な子どもたちが来ていないのです。その子どもたちの共通点は、学校でも教会でも交わりに入れないのです。その子どもたちも、人のいないときの『晴れる屋』には来てくれて、心を開いてくれるのです。改めて、伝道って何だろう・・、仕えるって何だろうと考えさせられます」。

このような文章です。私たちも、教会の働きや伝道ということを考えるとき、何に心を向けていく必要があるのかを、ときどき振り返りながら、一人ひとりに出会っていくような働きができればと思いました。そして、やはり、ひとり孤独を感じるようなとき、悲しいときや、苦しいとき、そこに神さまはおられないのではなく、そのような誰も共にいてくれないと思えるようなところにこそ、かえって、神さまは共にいてくださる。共にいて、孤独を抱えた子どもたち、人々の心を慰めてくださる。その神さまを覚えて、私たちもできるところで示された働きに加えていただく。今朝の聖書、ヨハネ14章18節「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない、あなたがたのところに帰ってくる」。このイエスさまの言葉を、共に聞いていくような働きができればと思います。

さて、今朝の聖書ですが、さらに19節には、こうありました。「もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである」。まもなく弟子たちと別れて、ひとり十字架への道を歩まれようとしていたイエスさまの言葉です。「別れ」の言葉ですが、弟子たちにとっては、反対の内容を持っていました。つまり、十字架の出来事によって、この世は、わたし=イエスを見なくなる。しかし、復活のからだにおいて現れるために、この世は見なくても、あなたがたは、わたし=イエスを見ると言われるのです。。

さらにまた、この後の16章では、この「別れ」によって、あなたがたは悲しむが、しかし、この「別れ」こそが、あなたがたに喜びを与え、そして、この喜びを奪い去る者はいない(16章22節)、とも言われています。私たちは、復活の信仰を与えられるとき悲しみは喜びに変わります。イエスさまを見失うのではなく、見上げることができます。復活のキリストを自分の人生に受け入れ共に歩むとき、その喜びを奪い去るものは無くなります。この主の約束を、心に留めていくことができればと思います。

もう一度、19節、「もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る」。この言葉を聞いても、私たちはイエスさまがこのあと十字架にかけられ殺されるが、復活して戻ってこられることを言っていると分かります。けれども、この時点で弟子たちはそれが分かっていません。では、弟子たちがこの時点でイエスさまの言っていることを理解するのは無理だったのでしょうか。しかし、聖書を見ますとイエスさまがこの14章あたりから繰り返し、十字架と復活の意味について説明しています。問題は、このキリストの昇天と聖霊としての再来ということの意味にかかっていました。

では、それはどういう意味でしょうか。先ほどの19節の言葉には、イエスさまが言われた「しばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなる」とか、「しかし、あなたがたはわたしを見る」とありました。この「しばらくしたら」という言葉は、「ミクロン」というギリシア語で、「短い」とか、「小さい」という意味です。つまり、イエスさまが十字架で殺されて見えなくなることと、復活のキリストに出会い再び見えることの間の違いは、ほんの僅かでしかないというのです。つまり、悲しみと喜びの差は、ほんの僅かな事でしかない。これがキリストの昇天と聖霊としての再来の一つの意味です。しかし、それは本当なのでしょうか。

あるいはまた、22節には「イスカリオテでない方のユダがイエスに言った」、とありまして、「主よ、あなたはご自身をわたしたちにあらわそうとして、世にはあらわそうとされないのはなぜですか」とあります。「ご自身を世にあらわそうとされない」イエスさま。弟子たち以上にヨハネが言う「この世」は、イエスさまが分からず、むしろ相容れないもの、敵対するものとして描かれています。この時点で弟子たちは、そうした「この世」の力に圧倒されてイエスさまの十字架の意味も、また、その出来事が決して終りでないということもよく分からなかったでしょう。なぜ、十字架で惨めに殺されることが、神のもとへ上げられるという栄光に満ちた出来事になるのか。なぜ、十字架という挫折と敗北が、復活の勝利へとつながっているのかが分かりませんでした。

このヨハネ福音書が書かれたとき、教会とクリスチャンたちはユダヤ教とローマ帝国による迫害の中にありました。大勢の人たちが殺され、大きな悲しみと苦しみがありました。そうした状況の中でクリスチャンたちは、大きな迷いや不安に襲われました。もしかすると自分も信仰のゆえに殺されるかも知れない。けれども、この信仰の道は本当に確かなのだろうか。そして、この迫害という苦しみの中で、いかに喜びや希望を持って生きていくことができるのだろうか。こうした問いが、当時の人々の心を覆っていたのではないかと思います。同じように、これは私たちの問いでもあります。日々、真剣にそれぞれの場所で生きようとする。み言葉に心を留め、少しでもイエスさまのあとに従って一生懸命生きてみようと思う。ところが一生懸命にやろうと思えば思うほど、難しくなってくる。こんなことをやっても、結局、無駄なのではないかと思えてくる。そして、心からは本当の喜びがどんどん消えていく。そうしたことは、真剣に生きる人ほど経験するものです。イエスさまに従おうとする人生において、時によく起こってくることだと思います。自分のことだけを考えて、あとはどうでもいいと生きていれば起こらない苦しみかも知れません。                     

しかし、こうした問いかけは、人間の世界だけで考えていても、答えは見つからないのです。それは例えば、人間にとって悲しみと喜びの違いがほんの僅かなはずがないからです。問題は、そういう自分なりに一生懸命生きる人生の苦しみや悲しみは、不完全で欠けたままで、しかしそのままで同時に大切なあなたの人生であり、そのあなたの人生にこそ本当の喜びが与えられるという、神さまの一方的な宣言を受け入れるかどうかなのです。23節「イエスは彼に答えていわれた、『もし、だれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう』」。イエスさまを愛し、その言葉に従って生きようとする人と共に、イエスさまも、また、天の父も共におられることが約束されているのです。

そして、この告別説教の最後の方になりますが、16章20節には、「あなたがたは憂いているが、その憂いは喜びに変わるであろう」とのイエスさまの約束の言葉もあります。これを人間の言葉として聞けば、やはり理解できません。憂いは喜びに変わると言われても、悲しみと喜びとの差はほんの僅かだと言われても、人間の言葉としては理解できないのです。そうではなく、これは一方的に響く神の恵みの言葉なのです。無条件の神の愛なのです。この人間の世界を越えて、イエスさまは「憂いは、喜びに変わる」と宣言してくださる。私たちは、それを受け入れるかどうか、問題はそこにあるのです。私たちそれぞれの人生にも、イエス・キリストが共におられます。そして、今も、弟子たちに言ってくださった同じ言葉を、「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」との言葉を語ってくださいます。こうした言葉に励まされつつ、それぞれの歩みへと遣わされていきたいと思います。

 

 (森 淳一)    

2007年5月20日(日)主日礼拝宣教要旨

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