二つの求め

5神の言葉はみな真実である、神は彼に寄り頼む者の盾である。 6その言葉に付け加えてはならない、彼があなたを責め、あなたを偽り者とされないためだ。 7わたしは二つのことをあなたに求めます、わたしの死なないうちに、これをかなえてください。 8うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。 9飽き足りて、あなたを知らないといい、「主とはだれか」と言うことのないため、また貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないためです。
                箴言30章5〜9節

今朝、お読みします『箴言』という書物には、人間のいろいろな意味での揺れ動きがよく表れています。人間とは、定まらない者です。自分で決めたことを簡単に変えてしまいます。人の意見に流され、自分というものを見失いやすい者です。この書には、ある意味では人間の持つ複雑さ、迷い悩む心を持つ人間の姿が描かれています。今朝の箇所にも、そのことは表れているでしょう。この宣教題を箴言30章7節の「わたしは二つのことをあなたに求めます」から、「二つの求め」としました。その「求め」は続く8節から9節に書かれています。「うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。飽き足りて、あなたを知らないといい、『主とはだれか』と言うことのないため、また貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないためです」。このように、人間とは実に弱いものです。「貧しくもなく、また富みもせず」、とあります。「富」を前にして、揺れ動く人間の姿、その本性がよく表現されています。

『箴言』はいろいろな種類のことわざ、格言が詰まった書物です。箴言とはもともとの言葉で「マーシャール」、それは「比較する」という語源から派生した言葉です。形式的には、知恵と愚かさの比較からできています。また、内容的には主に大きく3つに分けることができますが、「主を恐れる(畏れる)ことは知恵のはじめ」ということに関わる言葉のグループが、他の2つのグループの土台になっています。そして「主を畏れる」という、この箴言の土台ともいうべき言葉は、すべての人に向けて語られている言葉です。この土台の上に立って、他の2つのグループがあります。そして、人生に対する様々な知恵や教訓も、言ってみれば、その土台は一つ、「主を畏れることは、知恵のはじめ」というこの真理にあると語っているのです。簡単にまとめますと、箴言とは以上のような書物です。

しかし、この書物は形から言えば「知恵と愚かさの比較」ということを申しました。確かにそうなのですが、けれどもそれは単純な話しばかりではありません。複雑な人間の姿をよく捉えています。例えば、ある時には知恵ある者は愚かな者に対して、「相手にするな」と勧めることもあれば、しかし一方では「相手にしなさい」とも教えるのです。この矛盾はどういうことでしょうか。しかし、ここに箴言の、また聖書全体の奥深い教えが表されているのです。例えば、相手が余りにも理不尽であったり、理解できない言動で話し合う余地さえないような場合は、まともに相手をすれば疲れるだけのこともあるでしょう。そういう場合には、時にそれなりの距離を取るのも、大人として必要な知恵かも知れません。しかし、そうかと言って、いつも相手を決め付けてばかりでは、それもいいとは言えないでしょう。人は誰でも愚かなところがありますし、どうすれば難しく感じる相手とも関わっていくことができるのかと悩むところです。つまり、単純には決められない人間の複雑さを箴言はよく表しているのです。

さらに言えば、「愚かさ」とは立場をわきまえないということです。人間としての立場をわきまえないのです。今朝の聖書も、そのことを語っています。もう一度、9節の前半、「飽き足りて、あなたを知らないといい、『主とはだれか』と言うことのないため」。人間は生きることに特に問題がなかったり、満たされ過ぎたりしていると、あるいは、何か成功して天狗になって少し偉くなったような気になると、すぐに神を忘れ自分だけで生きているように錯覚する者かも知れません。そして、人間としての立場をわきまえず、思い上がり、取り返しのつかない罪を犯すこともあります。人は神ではありません。つまり、人は絶対の存在ではない。このことを忘れ、人間としての立場を忘れ、自分を神と思い上がる人は大きな罪さえ犯すのです。

また反対に、人はモノでもくずでもない。このこともわきまえないで、必要以上に自分は駄目だと卑下するのも愚かなことでしょう。9節後半、「また貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないためです」。「貧しくて」とありました。私たちの人生には、たとえば、「貧しさ」という言葉に象徴される、苦しみや悲しみがあります。実際に今の日本でさえ、住む家が無く公園や路上で生活する人、その他にも、病気の苦しさ、学校や、仕事、家庭での様々な悩みなど・・、苦しみのない人はたぶんいないでしょう。しかし、そうした人生での苦しみ、悲しみに出会うとき、すぐに自分は価値のない人間だ、もう生きる望みも無いと卑下してしまうのも愚かなことです。ここは「盗みをし、わたしの神の名を汚す」とありました。盗みも、罪です。それと同じように人生の苦しみに出会うとき、簡単に神さまの愛や恵みを忘れ、神を呪い自分の人生を投げてしまうのも、同じように「神の名を汚す」ことなのです。ここで、聖書は言っているのです。あなた自身を卑下してはいけない。あなたの人生に絶望してはいけない。神さまはあなたを愛している。あなたは神でもなければ、またモノでもない。あなたは愛すべき人間だと。この人間としての立場をわきまえること。これが、箴言の「知恵ある者」の生き方なのです。。

けれども、そこまで申してきて、なお考えなければならないことですが、それでは一体誰がそうした「知恵ある者」の生き方ができるというのでしょうか。ひどい苦しみに悩み、痛みを感じている人に、その苦しみゆえに自分は生きる価値のない駄目な人間だと思っている人に、何も考えずに、「あなたは間違っている。あなたはモノでもくずでもなく、大切な人間だ。人生の苦しみや悲しみに出会っても、罪を犯してはいけない。自分を駄目だと決め付けて生きる希望を失ってはいけない。神さまは、あなたを愛しておられるから大丈夫」と言う。それ自体は、もちろん正しいことでしょう。けれども、そうしたことをどうその人に伝えればいいでしょうか。私たち人間の言葉では無理ではないでしょうか。

私たちは、これが正しい生き方と言えずに、迷い、悩む、しかし、それでいいのではないでしょうか。むしろ、これが正しいと言い切ってしまう、何か神のようにすべてを悟ってしまう。何でも分かったように人生を振舞う、そう思い込むことが愚かさの始まりなのです。自分を正しいとして人生の問題を何でもすぐに解決できるかと思ってしまう、それが愚かだというのです。箴言の著者は、今朝の箇所で二つのことを神さまに求めました。一つは、8節前半、「うそ、偽りをわたしから遠ざける」、つまりは舌を制すること、言葉を考えて話すことです。人間は言葉においてこそ、罪を犯してしまう者だからです。また、8節後半、「貧しくもなく、また富もせず」と求めました。つまり、人間はまことに「富」に対して弱い存在であるからです。こういう自己認識こそ、つまり自分は神さまのような絶対の存在ではないと立場をわきまえる生き方こそ、神さまの前に必要なことなのです。自分を賢い人間、揺らぐことのない絶対な人間だと思い、悩んでいる人を前に、その痛みも知らずに無神経に正論を話す。箴言の言う「愚かさ」とは、人間としての立場をわきまえないことにあります。すべての問題を解決し、真理を示すことができるのは、真の知恵ある神のみです。5節には次のようにありました、「神の言葉はみな真実である。神は彼により頼む者の盾である」。絶対的なのは、神のみです。真実なのは人間の言葉ではなく、神の言葉です。人間は自らが完全になるのではなく、真実である神の言葉を盾として生きればいいのです。

そして、箴言全体の中心となる言葉は、「神を恐れる(畏れる)」(箴言1:7)ことでした。神を畏れることが知恵のはじめである。この土台の上に、箴言で語られるすべての知恵が立っているのです。土台は一つなのです。神を畏れること。神と人とは違うこと、その立場をわきまえることです。私たち人間は生きていく上で、時として、どちらが正しいと言えない葛藤を抱えます。また迷います。けれども不安を覚えながらも、そういうときは、「神を畏れる」という知恵の土台を見下ろしたいのです。み心に思いを寄せたいのです。そこには絶対なるものがある。たとえ、今、私たちの世界ではよく分からなくても、神の世界には私たちの考えや思いを越えたものがあり、私たちを下から動くことのない絶対の土台で支えてくださる。ですから、本当には大丈夫なのです。この世には悩みもある、苦しみもある。けれども、この最後のところで土台で私たちを支えると言われる神さまの存在に信頼して、迷いながらも、わからないながらも、謙虚に神さまに尋ねながら与えられた道を歩んでいきたいのです。神さまの言葉に、神さまの愛に信頼して歩んでいきたいと思います。。

                       (森 淳一)    
 

 

2007年4月15日(日)主日礼拝宣教要旨

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