神と出会う

1ハカリヤの子ネヘミヤの言葉。第二十年のキスレウの月に、わたしが首都スサにいた時、 2わたしの兄弟のひとりハナニが数人の者と共にユダから来たので、わたしは捕囚を免れて生き残ったユダヤ人の事およびエルサレムの事を尋ねた。 3彼らはわたしに言った、「かの州で捕囚を免れて生き残った者は大いなる悩みと、はずかしめのうちにあり、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼かれたままであります」と。 4わたしはこれらの言葉を聞いた時、すわって泣き、数日のあいだ嘆き悲しみ、断食して天の神の前に祈って、 5言った、「天の神、主、おのれを愛し、その戒めを守る者には契約を守り、いつくしみを施される大いなる恐るべき神よ、 6どうぞ耳を傾け、目を開いてしもべの祈を聞いてください。わたしは今、あなたのしもべであるイスラエルの子孫のために、昼も夜もみ前に祈り、われわれイスラエルの子孫が、あなたに対して犯した罪をざんげいたします。まことにわたしも、わたしの父の家も罪を犯しました。 7われわれはあなたに対して大いに悪い事を行い、あなたのしもべモーセに命じられた戒めをも、定めをも、おきてをも守りませんでした。 8どうぞ、あなたのしもべモーセに命じられた言葉を、思い起してください。すなわちあなたは言われました、『もしあなたがたが罪を犯すならば、わたしはあなたがたを、もろもろの民の間に散らす。 9しかし、あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの戒めを守って、これを行うならば、たといあなたがたのうちの散らされた者が、天の果にいても、わたしはそこから彼らを集め、わたしの名を住まわせるために選んだ所に連れて来る』と。 10彼らは、あなたが大いなる力と強い手をもって、あがなわれたあなたのしもべ、あなたの民です。 11主よ、どうぞしもべの祈と、あなたの名を恐れることを喜ぶあなたのしもべらの祈に耳を傾けてください。どうぞ、きょう、しもべを恵み、この人の目の前であわれみを得させてください」。この時、わたしは王の給仕役であった。
                ネヘミヤ記1章1〜11節

さて、3月も中旬を迎えまして、まもなく2006年度の歩みも終わろうとしています。新しい2007年度の働きに備えて、今、皆さんと少しずつ準備を進めています。今日の午後には信徒会を開きまして、ご一緒に新年度の歩みについて話し合いのときを持ちます。新年度の歩みを覚えてご意見をお寄せください。私はこれまで幾つかの教会で信仰生活を送って参りましたが、この名古屋教会での1年で感じたことの一つは新来者が多い教会であるということでした。教会の立地条件もその理由の一つかも知れませんが、ホームページを整えるなど地域に開かれた教会として地道に歩みを重ねている実りの成果ではないかとも思います。これからも、そのような教会として多くの方がイエスさまに出会うきっかけを作ることができればと願います。

この「教会の新来者」という事についてですが、以前、『バプテスト』誌で長崎教会の友納先生が次のような文章を書いておられたのが心に残っています。普段、教会の中にいる私たちは、教会に来たことのない人たちや地域の人たちが、教会をどのように見ていたり、感じたりしているのか、考えることが少ないかも知れません。しかし、教会にはじめて来る方や教会のことをまだよく知らない地域の人たちからすれば、教会の敷居はかなり高いものでしょうし、あるいは教会の見えない壁、バリヤーのようなものが、そうした人たちにとってはいろいろとあるのかも知れないということで、私自身も大変に教えられた文章でした。「新来者は私たちの心の中で・・」という題がついています。その一部をお読みします。

「ある教会成長セミナーでも、『一にも、二にも、三にも立地条件』だと語られていました。確かにそれも大切な要素かもしれません。『教会堂も伝道します』から、人の目に触れ、教会らしい外観、広い駐車場・・・どれもあれば素晴らしいことです。しかし、日本の現状だとそれに該当する教会は少なく、移転もそう簡単ではありません。では、『【どこで】新来者が起こされるのでしょうか』。私は今こう考えます。『新来者は私たちの【心の中】でまず起こされる』ということです。(中略)ここ数年、私たちの教会で最大の課題は、【目には見えない私たち自身の心の中に建てた高い敷居や壁が新来者や求道者を阻んでいないか、という自己吟味から始める】ことでした(『バプテスト』誌2003年5月号から)。このような文章です。教会の中にいると、つい分からなくなったり、忘れてしまったりすることですが、私たち自身がつくってしまう「心の中に建てた高い敷居や壁」のことも、時折、振り返って考えてみることが大切だと思います。

さて、今朝のネヘミヤ記にも「壁」の話しが出てきます。ネヘミヤという人がエルサレムの町を取り囲むように築かれていた城壁を再建する話しです。この城壁は、バビロニア帝国との戦争で破壊されていましたが、その後もそのままにされていましたので町に住む人々の生活は安全ではありませんでした。1章3節、「彼らはわたしに言った、『かの州で捕囚を免れて生き残った者は大いなる悩みと、はずかしめのうちにあり、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼かれたままであります』と」。そして、社会的にも貧富の差がますます激しくなり、富める者はさらに富み、貧しい者は子どもを奴隷として売るような悲惨な生活を強いられていました。ペルシアの王様に仕えていたネヘミヤは、そうした祖国の惨状を耳にしてエルサレムに帰る決意をします。当時、エルサレムを支配していたペルシアの王様は、信頼する高官の一人であったネヘミヤはじめ、ユダヤ人たちの願いに理解を示し、国の復興のために協力を惜しみませんでした。エズラ、ネヘミヤ記では、まずエズラ記の前半でエルサレム帰還と神殿の再建が語られ、次いで後半では学者エズラによる律法制度の整備と新しい共同体の形成、そして今朝のネヘミヤ記に入りますが、ここではネヘミヤの派遣とエルサレムの城壁再建が語られています。このエズラ、ネヘミヤ記はもともと一つの書物でした。

しかし、教会でこのエズラ、ネヘミヤ記をどう読むか、それは少し難しいことかも知れません。それは後の時代になると、ネヘミヤが必要で建てた壁が社会的に弱い立場の人々を苦しめていくものになったからです。そしてネヘミヤの時代から約480年後のことになりますが、イエスさまによって批判されたからです。イエスさまは当時のユダヤ教の中心とでも言うべき神殿と律法を批判しました。しかし、神殿と律法はまさにエズラとネヘミヤによってその基礎が築かれたものでした。イエスさまの時代、神殿は人々に多くの献金を求めました。さらに、神殿の拡張工事のため人々にかかってくる税金は重いものでした。貧しい人々の生活は非常に苦しいものでしたが、神さまに関わる神殿のことを誰も文句を言うことができませんでした。しかし、福音書を読むとき、ある決まった場所に神さまがいるのはなく、すべての人と共にいてくださる神さまのことや、神の国は貧しい人々のものであるとのイエスさまの教えを知るのです。そしてイエスさまご自身は、当時の権力者たちによって、まさに壁の外へ追いやるべき邪魔者ものとして十字架につけられました。

さらに、ヨハネ黙示録を見るとき、ヨハネの見た幻の中の神の国に「神殿」がなかったことがわかります。「わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである」(ヨハネ黙示録21章22節)。神と、イエス・キリストが「聖所」、新共同訳聖書では「神殿」と訳されています。神さまとイエスさまが「神殿」だというのです。そして神殿とは、人々が神さまと出会える場所です。つまり、私たちはイエス・キリストを通して神さまと出会うのであって、最終的には神殿は必要ないというのです。そうしたことを考えていきますとネヘミヤ記をどう読むかは、少し難しい問題です。人間が都合よく神を利用したり、人と人を隔てていくものに使われたりするなら問題で、ますますネヘミヤの作った「エルサレムの城壁」とは現代の私たちにとって一体何なのか、ということになるかも知れません。

では、実際、ネヘミヤはどうだったのでしょうか。ネヘミヤは都合よく神さまを利用したり、人と人を隔てていくために城壁を再建したのではありませんでした。そうではなく、ネヘミヤは命の危機にさらされている人々を守り、エルサレムの社会的混乱を鎮めて貧しい人々を助けたかったのです。そのためには、ネヘミヤの時代において城壁は必要でした。特に生活に困っている人、貧しい人の立場に立って彼が動こうとしていたことは、この後にある物語を読みますとよくわかります。そこで、彼は貧しい人々がその生活のゆえに借りざるを得なかった不当な利子付きの借金を帳消しにしています。まさに、消費者金融の不当な利息付借金で苦しむ人を弁護士が救済する現代の話しのようです。ともかく、誰の立場に立っているのか、ということは繰り返し確認していく必要があるでしょう。つまり、ここで大切なのは誰のために、何のために「壁」は必要かということです。人を愛するために、弱く小さくされている人たちを愛するために必要でした。私たちも何事かを為すときに、誰のために、何のためにするのかを確認していく必要があるでしょう。

そしてもう一つは、人々のために神さまと出会う場所を整える必要があったからです。国の再建を進めるネヘミヤたちが願ったことは、人々がまず神さまと出会い、その生活の中心に神さまを覚えて生きることでした。そのことによって人々は神さまから愛をいただき、日々の生活が守られ、社会の混乱もまた治まっていくと考えたのでしょう。同じように私たちも、神さまとの出会いを、それぞれの生活にまず大切に整えていきたいと思います。私たちは日々の歩みの中で、時に、神さまを忘れ、人を愛する力や、生きる希望を簡単に無くしてしまう者です。ですから、神さまとの出会いを大切に整えていきたいのです。それは、この礼拝の時であったり、家庭での祈りや聖書を読むときであったりするでしょう。それぞれの仕方と方法で、そうした時を大切に持っておきたいと思います。そして、今朝のネヘミヤのことを思いますとき、彼は幾多の試練の中でこそ、神さまに心を向けることを忘れなかった、そうした信仰者であったことを覚えます。私たちもそれぞれに試練に出遭う時にも、いや、試練の中でこそ、神さまとの出会いを心に留め、そこに立ち返っていくことができればと願います。

                       (森 淳一)    
 

 

2007年3月11日(日)主日礼拝宣教要旨

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