恵みに応えて

7万物の終りが近づいている。だから、心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい。 8何よりもまず、互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである。 9不平を言わずに、互にもてなし合いなさい。 10あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互のために役立てるべきである。 11語る者は、神の御言を語る者にふさわしく語り、奉仕する者は、神から賜わる力による者にふさわしく奉仕すべきである。それは、すべてのことにおいてイエス・キリストによって、神があがめられるためである。栄光と力とが世々限りなく、彼にあるように、アァメン。
                Tペテロ4章7節〜11節

さて、聖路加国際病院の名誉院長、日野原重明先生が新聞に連載のコラムをお書きになっています。『95歳・私の証し あるがままにゆく』と題されたものです。先生は以前、「時間」、「とき」をテーマに次のようなことを書いておられました。人は歳を重ねるごとに、時の過ぎ行く早さを実感する。それをフランスの心理学者ジャネーの説から、人が感じる時間の長さを年齢との関係で説明すると、例えば60歳の時に感じる時間の長さは、その人の10歳の時の6分の1の長さになるという計算です。子どもの頃、1年という時間はとても長く感じました。けれども、60歳の人は心理的にその1年を6分の1の長さに感じてしまうということです。それだけ、「時」は驚くほど早く過ぎ去るのでしょう。そして、先生はご自分の心境を旧約聖書詩篇90篇の言葉「ときの過ぎ去るのは速く、われらは飛び去るのです」と言われながら、与えられた時間を宝物のように、今という時をあるいは辛かった過去も大切にしていきたいとお書きになっておられました。その言葉の通り、95歳の今も恵みとして与えられた時間や健康、様々な経験など、それらを生かし捧げながら働いておられます。

しかし一方で、人それぞれに与えられた賜物を生かし用いていくことの難しさを感じます。個人的にも、もっと時間を大切にしたい。今日一日を大切に過ごしたい。そう思いながら振り返って見て、そうでない時の方が多く感じることもあります。また、「時間」のことだけでなく、スチュワードシップ月間ということで皆さんと学びを共にしていますが、恵みとして与えられている様々なものをどの様に受け取り、またどの様に用いているかなどを改めて考えさせられています。そしてまた、私たちを取り巻く社会の動きや環境にその難しさを覚えることもあります。先日、教団の名古屋教会で行われました「建国記念の日に反対する名古屋キリスト者集会」では、高校で社会科を教えておられる神谷則明さんが若者に伝える戦争の真実ということで講演してくださいました。その中で話された「教育基本法」の改正の問題が心に留まりました。教育基本法が改正(改悪)され、これから日本の学校は益々、管理と競争原理が強められていくだろう。現に、企業がお金を出して蒲郡に建てた学校は1パーセントのハイタレントの人材を養成し、力ある者に従順な人間を育てることが目的だということでした。今、国の指導者は子どもや学校を都合のいいように管理して国に従順に従う人間を作り、戦争においては進んで自己犠牲をもいとわない人間を作りたい、そうした思惑が隠されていると指摘されることがありますが、それはそうした動きの具体的な表れでしょうか。私たち教会がみ言葉によって示されることは、神さまが恵みとして与えてくださった掛け替えのない命を、モノとしてはいけない、道具としてはいけないということです。それは、当たり前のことです。けれども、この当たり前が62年前のあの戦争の時は、当たり前ではありませんでした。若者の命が、あるいは女性や子どもたちの命が、「お国のため」という理由でモノのように扱われ使い捨てにされていきました。神さまから恵みとして預かった子どもたちを、神さまのみ心に適うよう守り育てていくことも、また私たち教会の恵みの応答でしょう。

そういう中で、今朝の箇所は私たちに何を語ろうとしているのでしょうか。スチュワードシップというとき、よく読まれるみ言葉の一つですがペテロ第一の手紙4章10節〜11節、「あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互いのために役立てるべきである。語る者は、神の言葉にふさわしく語り、奉仕する者は、神から賜わる力による者にふさわしく奉仕すべきである。それは、すべてのことにおいてイエス・キリストによって、神があがめられるためである」。ここにも「管理人」という言葉が出てきます。今、申し上げた話しのように、クリスチャンとして何事かを管理し、管理されなければならないということでしょうか。以前出た本に牧師の仕事をまとめたものがありました。日々の様々な教会の働きから訪問やカウンセリングなど、事細かにいわゆる「牧師の仕事」が書かれています。確かに、牧師の仕事を考える上で役に立つ本であると同時に、しかしこれも何か管理社会の一環なのかと思わされる面もありました。つまり、そこには型にはまった牧師像があり、またクリスチャン像がある。私たちは何か型にはまった方法で教会の働きを進めているのではないでしょう。

イエスさまは、ルカによる福音書の中である管理人の話しをしています(ルカ16章)。しかし、この男は金持ちにとって良い管理人ではありませんでした。それは管理を任されていた金持ちのお金を使い込んでいたからです。そして、そのことが明らかになろうとしたとき、この男は主人である金持ちから油や麦を借りている人たちを呼び出し、その借金を少なくしてやったのです。それは職を失ったとき、恩を売った誰かが自分を家に迎えてくれることを期待したからでした。ところが、その金持ちは怒って男をクビにするかと思いましたが、そうではなく彼はこの男の利口なやり方を褒めたという話しです。

これは解釈の難しい物語です。読み方の一つは、この物語に出てくる「永遠のすまい」、つまり「天国」を「貧しい人々」に与えられたものとみることです。当時、パリサイ人や律法学者などの宗教的権威者たちは、物質的欲望を満たすことを正当化し富を人生の直接の目的と見ていました。そのため、富める者こそが神の国に入る条件を満たしており、貧しい者は神の祝福から外れた者と言っていたのです。それをイエスさまは「あなたがた貧しい人たちは幸いである。神の国はあなたがたのものである」と、同じルカによる福音書の中で(ルカ6:20)語っています。これは多くのユダヤ人にとって、聞き慣れないある意味衝撃的な言葉、あるいは、つまずきの言葉でしたが、しかし特にルカによる福音書が伝えるイエスさまは、この世の富が持つ誘惑の力とその富の奴隷となって生きる生き方への批判の姿が強調されています。そして、なぜ不正な管理人の男が「天国」に迎え入れられるかというと、借金のある貧しい人を助けたからだと言うのです(ルカ16:9)。

借金したくてする人は誰もいないでしょう。そしてこの借金した人たちは日々の生活にも事欠く、貧しい人たちのことだとも言われています。そして貧しさとは、今も昔も同じようなことがあるでしょう。お金はなかなか貯まりませんが、借金はあっと言う間に増えていきます。そして今、サラ金からの借金をはじめ「格差社会」と呼ばれる中、借金に苦しむ人は大勢おります。遊ぶ金欲しさというのではなく、生活費をサラ金から借りるケースも良く聞きます。街を歩く時、消費者金融の無人契約機の多さが不気味に感じることもあります。また、日本では自殺者が年間3万人を越えていますが、近年特に目立っているのが経済的理由でみずからの命を絶つ人たちです。しかし、その一方で銀行など強い所には公的資金が注入されるなど、何かやり切れない思いばかりが募るのです。貧しい人はさらに貧しく、とことんまで落ちて行く。そういう人たちは今も、そしてイエスさまの時代にも大勢いたことでしょう。そういうことを考えたとき、この物語は借金させている方には理解しがたい話しですが、借金を負っている側にとっては救いの物語になるのではないでしょうか。つまり、何を大切にするかが問題なのです。私たちは神の愛を受けた者として、自分も神の愛を大切にするのです。愛することを目的として与えられたものを捧げていく。私たちは、スチュワードシップ、神の恵みの良き管理人として与えられたものを神さまの愛に応えて用いていくのです。確かに、この世の管理人としては彼は不正で失格でしょう。しかし、神の前では神の愛に応えて生きる者として、まさに神さまに褒められる行動を取ったのでした。

こうしてもう一度ペテロの手紙に返ってみますと、やはり、神さまの愛に対する生き方、恵みをいただいた者の生き方というのが、神と人を愛するために、与えられた賜物を生かして仕えていく生き方なのだということが見えてきます。もう一度4章10節、「あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互いのために役立てるべきである」。私たちは、「それぞれに」、つまり、誰かに特別というのではない、一人ひとりそれぞれが、神さまから賜物をいただいていることが分かります。そして、それを「神のさまざまな恵みの良き管理人」なのですから、自分が主人になるのではなく、「神の管理人」として主人の思いに沿って使うことが自分の責任であることを覚えるのです。そして「主人の思いとは」、神と人を愛するためであり、それはつまり10節「お互いのために役立てる」ため、新共同訳では「互いに仕える」ためであり、そして11節「すべてのことにおいてイエス・キリストによって、神があがめられるため」です。「賜物」とは、神さまからタダでいただいたものです。恵みによって一方的に与えられたものです。そのことを考えるとき、自分の持っているものを人と比べて誇り、また自分のためだけに使うということが如何に的を外したことであるかが分かるのです。

神さまからいただく賜物は、人それぞれです。けれども、すべての人に与えられている神さまの恵みは、まずいのちそのものです。神さまが愛し掛け替えのないものとして与えてくださったいのちを精一杯生きることが、神さまが私たちに望んでおられることです。私たちは、どんなことよりも先に神さまの愛を感謝していただくこと、これこそが根本的な恵みの応答ではないでしょうか。このことがなければ、たとえ他の何があったとしても虚しいことです。今週も、神さまの愛をまずしっかりといただきながら、それぞれの仕方と歩みに応じて神さまの恵みに応えていきたいと思います。

                       (森 淳一)    
 

 

2007年2月18日(日)主日礼拝宣教要旨

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