さて、今朝は旧約聖書からイザヤ書をお読みします。新しい年もはじまり、気持も新たに何かをはじめられた方もいらっしゃるでしょう。聖書を通読しようと決心され、読みすすめておられる方もいらっしゃるかも知れません。かつて読んだ聖書の言葉もそのときは何も感じなくても、改めて読むとき自分の心に留まる言葉がいくつもあることに気づかされます。今朝のイザヤ書の中にも愛唱の聖句をはじめ、そうした言葉が多いのではないかと思いますが、皆さんはいかがでしょうか。
私も好きな聖句の一つに、例えば同じイザヤ書40章の最後にあります31節の言葉、「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」があります。そして以前、この言葉をある高校生におくったことがありました。それはミッションスクールのキャンプに講師として呼ばれ、聖書の話しをしたのがきっかけでした。そこで出会った高校生の中に、今の自分の気持を手紙の中に書いてくれた人がおりました。その中には、いろいろあり過ぎて精神的に疲れていること。何をしても楽しくないこと。物事に対して執着心が無くなってきていること。さらに、自分の気持が分からなくなってきていることなどが書かれていました。普段は言えない心の奥底を、自分の生活からある程度距離のある教会の牧師ならば、と打ち明けてくれたのかも知れません。
しかし実際、大人のように何かに疲れているとか、何に対しても無気力で元気が出ないという若い人たちは案外多いのではないでしょうか。そして、そうした気持をまず素直に話す場さえ限られているのでしょう。その高校生は先生に相談したこともあったが、「作り話のようだ」といわれ、ショックを受けたと書いていました。そういう若い人たちに対して出来ることと言えば、とにかく話しに耳を傾けること、そのことだと思いますが、あれから何年か過ぎ、もう20歳を越えて、あの頃出会った高校生たちはどうしているでしょうか。そしていつの日か、聖書の言葉があのとき出会った若い人たちにとっても心に留まる言葉となればと願っています。
今朝のイザヤ書40章は、普通、「第2イザヤ」と呼ばれる箇所です。イザヤ書は全部で66章ありますが、大きく3つに分けることができます。そのうちの2つ目が40章から55章の第2イザヤです。それぞれ書かれた時代が異なりますが、イザヤ書40章は39章までの第1イザヤの時代から約150年後の物語です。イスラエルの人々は、神さまの警告にも関わらず、結局、大国バビロニア帝国との戦争をして敗れました。主だった人々はバビロンへ強制連行され、国を追われることになりました。人々はおよそ50年間、故郷を夢見ながら捕虜として、捕囚の民として異国の地で暮らしました。
人々は異国の地にあっていろいろな事を考えました。もう自分たちは故郷へ帰ることができないのではないか。自分たちが生まれ育った懐かしい場所や懐かしい人たちに、もう二度と会うことはできないのではないか。なぜ、こうなってしまったのか。それは人間の思いだけで行動せず神をこそ信頼せよ、との言葉に耳を傾けなかった結果である。捕囚は自らの罪のためである。神さまは、自分たちの罪を赦してくださらないのではないか。もう自分たちはこの異国の地で忘れられ、ただ死にゆくしかないのではないか。その人々の中に、第2イザヤを書いたと言われる無名の預言者と弟子たちのグループもおりました。彼らもはじめ希望を失いかけていたのではないでしょうか。人間は、はかない。そして、自らが犯した戦争という罪を神さまは赦してくださらない。実際その罰として、自分たちはこの異国の地に囚われたままである。
ここでパウロは奴隷であるとか女であるとか、つまり何かの役割としての人生ではなく、あなたがあなた自身の人生を生きることができるとキリストにあって示しているのです。しかし、そのキリストにあって自由を学んだはずのガラテヤの人々が、また再びキリストにある信仰を失おうとしている。神の子としての本当の自分の命を失おうとしている、そのことをパウロは心配しているのです。その背景としては、パウロがこのガラテヤ教会を離れている間に依然としてユダヤ教の教えを大切にしているグループが教会に入ってきたことがありました。この人々はパウロによってクリスチャンになった人たちに、救われるためにもっと良い行いをする必要があると言うのです。それが23節、「しかし、信仰が現れる前には、わたしたちは律法のもとで監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた」。ここに、「律法のもとで監視され」とあります。「律法」とは、簡単に言えば信仰生活を送る上での細かい決まりやルールのことです。もちろん、「律法」自体が悪いわけではありません。19節や24節には、律法の大切な役割について述べられています。しかし、この律法がいつしかその役割を越えて、人の救いや神の愛を決める信仰の基準になっていった。人を裁く道具として使われるようにもなっていった。信仰生活を再び不自由なものに戻そうとしているのです。
考えてみますと、わたしたち教会の集まりはいろいろなことを強制することはほとんどないと思います。しかし、それでは何もしないのかと言えばそうではなく、一人ひとりが聖書を読んで祈り、自分に与えられた神さまのみ心を求めていくのです。誰かに言われたから「する」のではなく、ひとりの人格ある人間として、ロボットではなく人間として神さまに向い合い自分に与えられた努めを果たしていくのです。それぞれが主体的な一人として、神さまと向かい合うのです。そして、聖書の神さまはまずその人がその人らしく生きることを望む神さまです。私たちをまずはそのままで愛してくださる神さまです。それを何か教えによって縛ることはしないのです。ここでパウロも、そのことを教えているのではないでしょうか。24〜25節、「このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛りとなったのである。しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛りのもとにはいない」。パウロはクリスチャンとなった後も「律法」をことさら強調する人々を批判し、律法には律法の役割がありその分を越えてはいけないと言って信仰のあり方を示したのも、信仰生活を再び不自由なものとしないためです。
そして、このことはつまり、イエス・キリストがまずは私を私自身として愛してくださる方であるということを示しているでしょう。そのままの私たちを愛してくださるということです。そのままの自分を愛され受け入れられるとき、人は真に生きる力を手にして生きはじめます。誰かを利用し誰かから利用されるモノとしての自分ではなく、掛け替えのない一人の人間として見られるとき生き生きとした人生がはじまるのです。あるがままの自分が愛され受け入れられていることこそが、生きる上で何よりも大切なことではないでしょうか。
しかし、あるがままの自分を誰が受け入れてくれるでしょうか。誰が愛してくれるでしょうか。自分もあるがままの誰かを愛しているでしょうか。私たちはイエス・キリストの愛をまず心に留めたいのです。私たちをそのままで受け入れる愛を深く覚えたいのです。イエスさまは、その人がその人自身として生きることができない人々と出会ってくださいました。その人をうわべで判断せず、その人自身と向かい合ってくださった方です。具体的には「律法」を守ることができず、そのために「罪人」と呼ばれていた人たち、貧しい人たちや病気のたち、外国人や女性たちと出会ってくださいました。そして、その人々のために命さえも十字架にかけてお与えになりました。それは、2000年前のことだけではありません。キリストは今日も、私たちのためならば命を与えると言ってくださる。私たちの命は、神さまの前にはそこまで大切なものとされている。そのことを、クリスマスは告げているのです。だからこそ、私たちのところにイエスさまは降りて来てくださったのです。私たちを愛してくださるために、この世界に来てくださったのです。このキリストを覚え、このキリストを私たちが着るとき真のクリスマスがはじまるのです。7
(森 淳一)