先日、バプテスト連盟の定期総会が伊豆の天城山荘で開かれまして、全国の諸教会から約350名の関係者が集まり、夜まで熱心な議論が交わされました。また、久しぶりに会う牧師仲間や知人も多く、お互いの近況を語り合いながら再会を楽しむ時間も与えられ感謝なときでした。その中に仙台にあります私の出身教会が、長年の目標でありました会堂建築を来年の春からはじめるとの話しを聞くことができ本当に嬉しく思いました。実際、その教会は建物が老朽化しており、講壇の床がミシミシと音が鳴ったり、以前には実際に台所の床が抜けたりと、建物を維持していくだけでも教会の負担は大きいようでした。
しかし実際、会堂の建築となりますと、そこに至るまでの準備がやはり大変です。計画や費用のことは当然ですが、教会員一人ひとりの信仰生活が改めて問われます。10人いれば10人それぞれの考え方があり、その意見をまとめて一つの方向に進んでいくのは簡単なことではありません。明けても暮れても話し合いの連続で、みんなが忍耐強く関わりながら会堂の建築という働きを進めていかなければなりません。例えば、会堂をどうして建てるのかということだけでも、すでに様々な意見が出てくるでしょう。新しい教会堂を建てることは伝道の良い手段になるから建てた方がよいという意見や、反対に建物の立派さだけで伝道ができるというのは甘い考え方ではないかとか、いや、今はともかく安全な建物を建てるのが第一だとか。それはいろいろあるでしょう。もちろん、財政的な現実もあります。そして、どれが一番正しくて完全な意見というものは、やはりないのだと思います。どのような問題でも、みんなで一生懸命に話し合って、もちろんより良いものを作っていく。しかし、それが完全に正しいかと言われれば、もちろんそうではない。人間のすることなど、どれもすべて不完全です。しかしその不完全さをよく覚えた上で、それでも何かを選び取って歩んでいく。私たちの歩みはそうした歩みの連続ではないかと思います。そしてその時、今朝の聖書の言葉で言えば14章1節、「愛を追い求めなさい」とありました。問題は、いつもそこに「愛」があるかどうかでしょう。この聖書の言う「愛」を覚えながら私たちも教会の働きに参加させていただきたいと思います。
さて、会堂の建築に限らず教会のことを語るとき、パウロはそこに「愛」があるかどうかが大切だと語ります。今朝はコリント人への第一の手紙14章1節から19節を通して、「愛」によって教会を造り上げていったパウロの働きと、また、その「愛」を土台として生かされていった彼の信仰者としての生き方を見ていくことができればと思います。まず14章ですが、手紙の内容からここは12章から14章までを一つのつながりとして読んだ方いい聖書の箇所です。12章では教会を「キリストのからだ」に譬えながら、私たちそれぞれはキリストを頭(かしら)とするからだの部分であり、お互いが助け支え合って教会を造っていくことが分かります。続く13章は、結婚式などでもよく読まれる愛についての教えです。これは男女の愛について教えているというよりも、もともとは教会のことを語るときに必要な愛の教えです。つまり、今朝の14章を含めて12章から14章は「教会を造り上げる」ということが一つ大きなテーマになっているのです。
教会を造り上げるためには、それぞれが与えられた賜物を持ち寄って神さまのために働くことが必要です。そして、それぞれがその賜物を眠らせるのではなく生かして用いるよう勧められています。14章12節、「だから、あなたがたも、霊の賜物を熱心に求めている以上は、教会の徳を高めるために、それを豊かにいただくように励むがよい」。ここで「教会の徳を高める」という言葉は「教会を造り上げる」という意味です。新共同訳聖書では、そのように訳されています。そして、ここでは教会を造り上げるときの賜物の用い方が問題になっていました。先程の会堂建築の話もそうですが、まず何についても私たちがすることはいつも不完全なものだということを覚えておく必要があります。13章には「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている」(12節)とあります。私たちの知ること、やること、それはやはり部分的な、限られたものでしかない。「おぼろげな」完全なものではないと聖書はいうのです。完全なのは、神さまだけです。私たちは、神ではありません。私たちが善意でしたことであっても、しかしそれは必ずしも良いことであるとは限りません。
その具体的な例が、今朝の箇所です。読んでいただきましたように、コリント教会においては、「異言」という賜物が問題になっていました。異言は不思議な言葉で神の真理を語りますが、それを解く人がいなければ他の人は理解することができません。6節から11節には、そのことが書かれています。「それと同様に、もしあなたがたが異言ではっきりしない言葉を語れば、どうしてその語ることがわかるだろうか。それでは、空に向かって語っていることになる」(9節)。パウロは異言を禁じているわけではありません。むしろ、多くの異言が語れることを感謝さえしています(18節)。しかしだからと言って、それが神と人に喜ばれるものかは、また別な問題なのです。実際には、音の変化もつけずに楽器を吹いているようなものかも知れない。あるいは、誰かに向かって話していながら、実際には何もないものに向かって話しているようなことになっているのかも知れない。だから、15節、「すると、どうしたらよいのか。わたしは霊で祈ると共に、知性でも祈ろう。霊でさんびを歌うと共に、知性でも歌おう」。知性でもって、新共同訳では「理性で」、祈り、賛美する方をパウロは選ぶというのです。当時、異言を語ることは最も信仰が成長した状態の一つと考えられていたようです。しかし、たとえいくらそう思われていたとしても、隣の人に伝わらなければ何の益にもならないとパウロは言うのです。
やはり、私たちも自らの歩みを振り返って見る必要があるでしょう。ただ考えてみますと、私たちの歩みは未だに神の国が来ていない途上の歩みです。「今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている」中の歩みです。けれども、聖書にこの言葉を読むとき、私たちはいつも慰めと励ましをもらうのではないでしょうか。目に見えて、はかばかしくない途上の歩みでも、神さまはそれでも神の愛に応えて働くように期待しておられる。私たちは安心して悩み、迷い、失敗し、しかし、それでもゆるされて一歩踏み出し続けることができる。思えば、人間のすることなど神さまの前には取るに足らないものです。しかし、神さまはその愛に応えて歩む者たちの歩みを喜んでいてくださるのではないでしょうか。
私たちは神さまからいただいた賜物を生かして用いるべきでしょう。しかし同時に、私たち人間のすることは限りある、部分的なものに過ぎないことを覚えていくべきでしょう。そして、だからこそ、もう一度14章1節「愛を追い求めなさい」とのパウロの言葉を心に留めるべきでしょう。この愛こそ、対立するかに見えるこの2つのことを結び合わせる唯一のものだからです。そしてこの愛は、人間が勝手に思い描く愛ではなく、「アガペー」と呼ばれる神さまの愛だということを覚えたいと思います。先ほども申しましたように、14章は12章、13章の流れの中で読むことが大切です。そして13章にある愛の教えを読むとき、私たち人間が簡単に手にするような愛とはまったく次元の違うものであることが分かるのです。そしてこの愛は、具体的にはあのイエス・キリストの生涯と十字架と復活に表されたものです。イエスさまは神の国を求めて生きられました。しかし、この世においてイエスさまは十字架にかけられました。けれども、神さまはその生き方をよしとされ、イエスさまを復活させられました。つまり、私たちも迷い、悩み、失敗しながら、それでも神さまに従って生きていく道を独り子イエス・キリストの十字架によって開いてくださったということです。私たちもこの世での十字架の道が、キリストの復活へとつながっていることを信じて生きることがゆるされているのです。
パウロの生き方の強さは、やはり、この十字架のキリストにその土台があることでした。今朝の説教ではもう一つのこと、このキリストの「愛」に支えられて生きる信仰者の生き方を少しだけパウロから学んでみたいと思います。14章18節と19節にはこうありました、「わたしは、あなたがたのうちのだれよりも多く異言を語れることを、神に感謝する。しかし、教会では一万の言葉を異言で語るよりも、ほかの人たちをも教えるために、むしろ五つの言葉を知性によって語る方が願わしい」。パウロはここで、「だれよりも多く異言を語れる」といっています。先ほども申しましたように、当時、コリント教会には異言だけでなく神秘的な様々な体験や、優れた才能を持っている人を信仰的にも優れた偉い人と考えていました。パウロ自身、不思議な神秘的な体験をしたことを別な箇所に書いていますが、ここで異言という特別な言葉を使うよりみんなが分かる知性ある言葉を使うと同じように、そうした神秘的な特別な体験は個人的には嬉しいことだが教会を造り上げるためには他の人に誇っても無駄なことと言うのです。パウロにとっていつも大切なことは神の愛があること、そして愛の神が私たちと共にいるということでした。
最後になりますが、以前、教会学校の分級から学んだことを一つ触れて終りたいと思います。それは、ペテロ第一の手紙から、神の恵みの良い管理人となるように、という聖書の勧めでしたが、私たちが神さまからいただく「賜物」は、いわゆる「いいこと」だけでなく、私たちの弱さも「賜物」である。英語でギフト、神さまからの「贈り物」、「プレゼント」だという教えでした。これまで、どこか私はいわゆる「いいこと」だけを「賜物」と意識していましたから、私たちの弱さもまた神さまからのプレゼントという説明に、「はっ」とさせられたことを思い出します。今朝の教会学校「少年・少女科」の学びでも、「あなたがたも完全なものになりなさい」の「完全」とは、パーフェクトのことではなく、コンプリート、形で言えばまん丸の形、欠けのない様子のことだとありました。神さまに造られた私たちは、造られたままの姿でよい業に必要なものをすべて備えられているというのです。わたしはわたしと、恵みは十分に与えられていると、「弱さ」も含めて「そのままの私」を神の恵みと受け取っていったパウロの生き方につながるものを感じました。
私たちも神さまの「愛」を土台として生きたいと思います。そして、お互いにその愛を求め、その愛が働いているかを確かめつつ、教会でまたそれぞれの生活の場所において、神の国のご用に参加させていただきたいと願います。
(森 淳一)