さて、今朝は新約聖書からマタイによる福音書をご一緒にお読みしたいと思います。マタイによる福音書は新約聖書の一番はじめに置かれた書物ですので、聖書を最初に手にされる方が聖書と出会うはじめての世界がこの福音書かも知れません。しかし実際に聖書を開いてみますと新約聖書の一番はじめには、およそ私たちの理解の及ばないあるユダヤ人の「系図」が延々と書かれています。聖書を一度は通読しようと思って読み始めた人が、この系図を読むだけで読む気が失せてしまうといった話しをよく聞きます。けれども、聖書はどうして読む者にやさしくない書き出し方をするのでしょうか。
そのことを考えるために、牧師で神学者でもありました北森嘉蔵という先生が『聖書百話』という本の中で次のように言われていたことを思い出します。「マタイ伝第一章の冒頭に、『列車時刻表のように無味乾燥』と見える『系図』を掲げた新約聖書は、すぐ引き続いて『処女降誕』という奇怪きわまりない記事を掲げる。これはまるで玄関先に鉄条網でも張り巡らして、家の中に入りにくくするようなものではないか。およそ書物というものは、多かれ少なかれ読者にこびるものである。(中略)『系図』に退屈した読者は、がまんして読んだ『処女降誕』でにが笑いしながら、ついに新約聖書をほうり出したくなるのではなかろうか。いたれり尽くせりの無愛想な書物である」。
こういう文章です。北森先生も、聖書の書き出し方は書物としては下手くそな無愛想なものだと述べています。しかし続けて、どうして聖書は読んでもらうために読者にやさしく語りかけないのかという疑問にまとめますと次のように答えています。それは新約聖書が自己の示す真理に対しておおらかな信頼を持つところから生じているからなのだと。真理への信頼を持つ書物は、厚化粧をしてこびを売る必要を感じない。キリストの本質はすでに「系図」の中で、そしてまた「処女降誕」の中で示されている。その本質は、すなわち愛に値しない者を愛することであり、愛に価しない者を愛することを自己の本質とするイエス・キリストが、愛に価する者のみを愛するという性愛による男女の結合を排除して誕生するということは当然のことではないか、と説明するのです。
聖書は確かに、そのはじめにおいて「系図」や「処女降誕」などの記事を掲げ、必ずしも読む者にとって親切な書物とは言えないかも知れません。しかしそういった記事の中に、実はそのはじめからキリスト教の本質、つまりイエス・キリストによって表された神の愛が、愛に価しない者を愛するという無条件の愛が、そのはじめからしっかりと語られているというのです。クリスチャンの信仰生活の基本は、聖書を読むことです。そこに神の言葉を聞き続け、聖書に記されたイエス・キリストに神の救いと無条件と表現される限りない神の愛を聞き取ることです。
そして、このことは今朝の聖書のテーマでもあります。今朝の場面では、イエスさまはパリサイ人、律法学者たちと論争をしています。そして、この人々を批判してこう言っています。8〜9節、「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教えとして教え、無意味に私を拝んでいる」。これは、書いてありますように旧約聖書イザヤ書の言葉です。イエスさまは聖書の言葉を使って「人間のいましめ」ではなく、「神の言葉」に帰れとの教えをここでしています。なぜ、このようなことになったのでしょうか。
事のはじまりは、イエスさまの弟子たちが手を洗わないで食事をしていたということにありました。弟子たちの多くは都会から言えばいわゆる田舎の出身で、あまりしっかりとした宗教教育も受けていなかったのかも知れません。1〜2節には次のようにあります。「ときに、パリサイ人と律法学者たちとが、エルサレムからイエスのもとに来ていった。『あなたの弟子たちは、なぜ昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事のときに手を洗っていません』」。ここには「エルサレムから来た」とあるように、つまり都会から来た偉い人たちが宗教的にだらしない人たちをしっかり教育してやろうという、どこか感情的に許せない行為でした。
当時、律法学者やパリサイ人は異常なほど神経質に汚れることを問題にしていました。「汚れ」とは、簡単に言えば神さまに救ってもらえない、神さまから遠くなるという意味です。しかし、なぜ食事の前に手を洗わなければ救われないのでしょうか。それは、手を洗わずに食事をすることによって伝染病などが流行ったことがありました。当時、病気は悪魔がしたことと考えられていましたので、たとえ病気にならなくても手を洗わない人は悪魔に取りつかれると思われたのです。衛生に気をつけることは大切なことです。しかし問題は、病気になったのはその本人が悪いからなったとされたことでした。そこでは、健康な人や強い人の考え方が宗教に利用されています。病気の人は健康な人より劣った神から遠い価値のない人間だとされていき、気をつけなければ人の勝手な考え方によって本当に大切にすべきことが忘れられてしまう危険があるのです。そして4節から6節の「父母を敬え」のたとえでイエスさまも、人の思いが宗教を利用しようとするとき、その教えがまったく無意味なものになることを指摘しています。そこには、神のためならば自分の行いを都合よく正当化し、極端には何をしても構わないという宗教の持つ危険性が語られているのです。そして、オウム真理教や統一協会のことを考えるとき、その当時ばかりでなく今の時代も問題は同じであることがわかります。
では、私たちはどのような姿勢で生きていけばいいのでしょうか。イエスさまは、宗教の持つ危険を知っていました。しかし、だからといってイエスさまはそこで「神を信じるな」とは言われませんでした。私たちが歩むべき道は、やはりイエス・キリストという信仰の中心、聖書の原点であるイエスさまの言葉、イエスさまの生き方を見上げることでしょう。私たちがその原点に立って歩むならば、その教えは決して人を殺すことはありません。かえって人を本当に生かすものです。イエスさまは今朝の箇所で何のために宗教の細かい決まりがあるのか、そのもともとの所を問うておられます。では、それは何でしょうか。その答えの一つは、同じマタイによる福音書22章34節から40節にありますイエスさまの言葉です。「さて、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そして彼らの中の一人の律法学者が、イエスを試そうとして質問した、『先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか』。イエスは言われた、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。私たちが立つべきその原点は、神を愛し人を愛することに尽きるのです。
この教えのために、他の細かい決まりはあるのだと言うのです。もし細かい決まりが、最も大切な教えである神を愛し人を愛することにつながっていかないなら、たとえば神のためと言いながら本当のところ父母を愛さないなら、その決まりは無意味でしょう。神を愛することと人を愛することとは分けて考えることのできないものです。それを間違うなら、つまり神を愛すると言いながら何か自分やその周りの小さなことだけを考えて、隣り人との関係を持たないなら、あるいは無関心でいるなら、それはイエスさまがもっとも嫌い批判されたパリサイ人の生き方と同じことになるのです。
数年前に開かれましたバプテスト連盟の定期総会で、次のような議論があったことを思い出します。それは、全国少年少女大会と少年少女の「隣人に出会う旅」の隔年相互開催が提案されたときのことです。様々な意見が出ましたが、代議員として出席していたある高校生が隔年開催に反対意見を述べました。「隣人に出会う旅とありますが、僕たちはまだ、隣人に出会うには早いと思います。それよりも、今はまず自分自身を確立するのが先だと思います」。これに対して、ある牧師がこう答えました。「私たちはどこで自分自身を確立するのでしょうか。他者との出会いなしに、自分を確立することなどできるでしょうか。信仰とは、そもそも私たちの隣人となってくださった主イエスとの出会いによって、赦され生かされているのではないでしょうか。主イエスの『自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛せよ』との言葉に従い、隣人となって生きること、教会は、他者との出会いに生きる。この生き方を失えば、教会はいのちを失うと思います」。
「教会はいのちを失う」、この言葉が心に残りました。たとえ何十年と教会の歴史を重ねようとも、また何十年クリスチャンであろうとも、いのちを失えば意味はありません。繰り返し何度でも教会のいのちを得るために、教会の頭であり、教会の原点であるイエス・キリストに帰っていきたいと思います。イエスさまの示した神の愛に立ち返り、その愛によって神を愛し人を愛するという人生の目的を覚えていきたいと思います。
(森 淳一)