さて、先日同じバプテスト連盟で東海ブロックの諸教会の牧師たちが瑞穂教会に集まりまして牧師会がありました。近くの教会と言いましても、普段そう顔を合われるわけでもありませんので、こうした機会にはお互いの近況や教会の祈りの課題などの情報を交換します。その中で平針教会の斉藤先生が今、教会で取り組んでおられる会堂建築の様子を報告してくださり、以前に私も関わったことのある課題でしたので、そのご苦労を思いながら前のことをいろいろと思い出しておりました。
新しい会堂を建てるときなどに読んでこころに留めておきたいみ言葉の一つは、旧約時代に新しい神殿を建てたソロモンの物語と彼の祈りです。「栄華をきわめたソロモン」という言葉が新約聖書のマタイによる福音書の中に出て参りますが、ソロモンがイスラエルの王として長い歳月と国の総力をあげて造った神殿は立派なものでした。ところが、ソロモンはその神殿が立派だからそこに神さまが住んでくださるとは思っていません。ソロモンは神さまが地上のどこかに、また高い天にさえも収めておくような方でないことを告白します。ならば自分の造った神殿の中に、たとえそれがどんなに立派なものでも神さまを収めておくようなことはできないと言うのです。聖書の神さまはこの世の立派さや人間が決める相応しさに応じて、来たり来なかったりするといった方ではありません。
では、どこに神さまはおられるのでしょうか。例えば、イエスさまの次のような言葉でしょう。ヨハネ2章19節から21節にはこうあります。「イエスは彼らに答えて言われた、『この神殿をこわしたら、わたしは3日のうちに、それを起こすであろう』。そこで、ユダヤ人たちは言った、『この神殿を建てるのには、46年もかかっています。それだのに、あなたは3日のうちに、それを建てるのですか』。イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである」。このイエスさまの言葉にも、基本となる一つの答えがあります。真の神殿、真に神さまが住む場所は、「イエス・キリストのからだ」とあるのです。このキリストのからだに私たちがつながる時、神さまは共にいてくださるのです。
そして「キリストのからだ」、と言えば聖書でパウロが何度も言うように教会のことです。教会に神さまが共にいてくださる。しかし、それが建物や集会の立派さを表すのではないことは当然です。教会はギリシア語で「エクレーシア」、もともと人の集まりを示す言葉です。このキリストのからだである人々の集まり、キリストのからだにつながろうとするすべての人と共に神さまはいてくださるのです。
そして実は今朝のヨハネによる福音書が、この「つながる」、あるいは「留まる」、「〜の内にいる」という言葉を繰り返し使って、今申し上げてきたようなメッセージを送っているのです。先ほどのヨハネ15章5節にもこうありました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」。つまり、神さまはこの「つながり」の中に共にいてくださるのです。そして、そのつながりは神さまが共にいてくださるつながりですから、人の利害関係や単なる感情によるつながりではありません。イエス・キリストにつながる「つながり」。見えるものに依るのではなく、愛のあるつながりの中にこそ神さまは共にいてくださる。反対に言えば、それを失ったところにはもはや神さまはおられないのです。
そして、そのことは今朝の箇所にもよく表されています。ヨハネ15章9節にはこうありました。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい」。'神さまが共にいてくださる'、というつながりをその土台で支えているもの、それはこの「愛」だと言うことです。このことを、さらに押さえておきたいと思います。愛のあるつながりの中にこそ、神さまは共にいてくださる。もし、私たちがイエスさまにつながり、またイエスさまの愛をいただいて互いに愛し合うなら、そこに神さまはいてくださる。「わたしの愛のうちにいなさい」、このことが私と神さまを、そして私たちをつなぐ大切な教えです。
しかし、この愛というのは実際やってみようとすると本当に難しいものです。口で言うのは簡単かもしれません。人を愛することや平和を作り出すことは、憎むことより争うことよりいいに決まっている。ところが、ユダヤの人々は真面目に人を愛そうと思えば思うほど実は難しい、そう簡単でないことに気がつきます。例えば、貧しい人を助けると言っても自分にも生活があります。人を愛すると言っても、病気の人ならうつされたらたまらないと考えます。そこで、自分を弁護するためにいろいろ言い訳も考えます。そもそも貧しい人や病気の人というのは、神さまの前に悪いことをした人たちだからそうなったのだ。助ける価値もない、神さまから遠い人たちだ。しかし、もちろん、そういうユダヤの人たちを私たちは簡単に愛の無い人たちだと裁くことはできないでしょう。
私たちも同じように、実際に一歩、愛の行いに踏み出したときそこに喜びを感じながらも、しかし同時に戸惑い難しさを感じるからです。そこにいつも限界と不完全さを覚えるからです。バーナード・ウェーバーというアメリカの絵本作家が書いて、日野原重明先生が訳された『勇気』と題する絵本がありました。子どもたちがよく分かるように、嫌いな野菜を嫌な顔をせず食べることや、プールの飛び込み台から飛び込むことなど、身近なことから「勇気」とは何だろうと考えさせながら、様々な「勇気」が可愛らしい絵と共に紹介されていました。そして、読み進めていくとそれは子どものことだけでなく、いやむしろ大人こそが立ち止まって考えるべき問題だと思わされました。絵本の中には友だちと喧嘩したときに自分の方から仲直りするのも勇気とか、一緒にふたりが励ましあうのも勇気など、人を愛していこうとするときに勇気が要ることを教えてくれる内容でした。日常のほんの小さな愛の行為の中にも勇気は必要です。けれども、実際にそうできるのか。言うべきときに、守るべきときに、あるいは行動すべきときに、私はそうすることができるのか。実際、口で言うほど簡単でないことは誰もがよく分かっていることです。
それではこの際、もう考えるのは止めようかと思う時があります。目をつむって黙っていても、誰かがするかも知れない。何も自分だけが一生懸命にならなくてもいいのではないか。そう考えることは人間ですから、仕方がないことかも知れません。しかし、問題はそういう限りある不完全なこの私のままで、それでもなお見上げる方を見上げて、つながるべき方につながって歩むことではないでしょうか。
人を愛するといっても、やはりそこには限界がある。しかし、そうやって人々が切り捨てていった人々、貧しい人々や病気の人々、そういう人たちのそばに神さまは共にいてくださることをはっきり示してくださった方がいた。それこそ主イエス・キリストです。父なる神の戒めを子なる神イエス・キリストが見える形で、その生涯を通して再び教えてくださったのです。このイエス・キリストにつながり、従っていくことで、私たちは愛することに戸惑いや不完全さを感じながら、それでもなお愛する喜びと力を繰り返し手にしていくことができるのだと思います。人間を越えた、神さまからいただく力です。
10節、「もしわたしの戒めを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父の戒めを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである」。「うちにおる」という言葉は、はじめに読みました5節の「つながる」という言葉と同じです。父なる神の大地から、愛の力をイエス・キリストというぶどうの木が吸い上げてくれます。そこにつながる人々は1本の枝として、キリストを通してその愛の力をもらっていくのです。「わたしはまことのぶどうの木」、イエスさまは愛という実を豊かにつけるまことのぶどうの木です。その木につながることが大切です。そして、「まことの」と言われているぶどうの木なのですから、私たちが自分たちでその結ぶ実のことを心配しなくていい。私たちは、欠けも多く不完全で間違いを犯します。しかし、つながっている木はまことの木、豊かに実をつける木です。この木につながっているならば、根本的なところで心配する必要はないということです。
そして最後の11節、「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ち溢れるためである」。10節にある戒めの目的は、私たちの喜びにあります。そして、この戒めは私たちを不自由にするのではなく、かえって私たちをいきいきと生かすものです。イエスさまは言われました。「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」(マタイ11:29)。最初は戸惑いがあるかも知れない。何かのくびき(戒め)を負うことで、不自由になることがあるかも知れない。しかし、イエスさまのくびきは私たちの魂に休みを与えるものです。「休む」とはもともとの言葉で「元気づける」という意味もあります。つまり、自分勝手にそれが自由だと思って生きていくよりも、イエスさまのくびきを負う方が本当の愛や喜びを手にして生きることができる、私たちの魂にまことの元気が与えられるからと言われているのです。私たちのまずなすべき第一のことは、1本の枝としてキリストにつながりその愛に生きることです。つながるその木はまことの木なのですから、後はその木に信頼して従って参りましょう。
(森 淳一)