希望の光

14王はこの言葉を聞いて大いに憂え、ダニエルを救おうと心を用い、日の入るまで、彼を救い出すことに努めた。 15時にその人々は、また王のもとに集まってきて、王に言った、「王よ、メデアとペルシャの法律によれば、王の立てた禁令、または、おきては変えることのできないものであることを、ご承知ください」。 16そこで王は命令を下したので、ダニエルは引き出されて、ししの穴に投げ入れられた。王はダニエルに言った、「どうか、あなたの常に仕える神が、あなたを救われるように」。 17そして一つの石を持ってきて、穴の口をふさいだので、王は自分の印と、大臣らの印をもって、これに封印した。これはダニエルの処置を変えることのないようにするためであった。 18こうして王はその宮殿に帰ったが、その夜は食をとらず、また、そばめたちを召し寄せず、全く眠ることもしなかった。 19こうして王は朝まだき起きて、ししの穴へ急いで行ったが、 20ダニエルのいる穴に近づいたとき、悲しげな声をあげて呼ばわり、ダニエルに言った、「生ける神のしもべダニエルよ、あなたが常に仕えている神はあなたを救って、ししの害を免れさせることができたか」。 21ダニエルは王に言った、「王よ、どうか、とこしえに生きながらえられますように。 22わたしの神はその使をおくって、ししの口を閉ざされたので、ししはわたしを害しませんでした。これはわたしに罪のないことが、神の前に認められたからです。王よ、わたしはあなたの前にも、何も悪い事をしなかったのです」。 23そこで王は大いに喜び、ダニエルを穴の中から出せと命じたので、ダニエルは穴の中から出されたが、その身になんの害をも受けていなかった。これは彼が自分の神を頼みとしていたからである。 24王はまた命令を下して、ダニエルをあしざまに訴えた人々を引いてこさせ、彼らをその妻子と共に、ししの穴に投げ入れさせた。彼らが穴の底に達しないうちに、ししは彼らにとびかかって、その骨までもかみ砕いた。
ダニエル書6章14〜24節

今朝は名古屋教会の召天者記念礼拝です。ご遺族の皆様をお招きして、ご一緒に礼拝をささげることができますことを感謝します。今日のような召天者記念礼拝は、日本に古くからある先祖崇拝と混同されることがありますが、キリスト教では亡くなった人を神や仏として拝むことはありません。人は亡くなっても、人です。しかし、人は死んでなくなるわけでもありません。なぜなら、聖書の神さまは死すら越えて私たちと共にいる神だからです。クリスチャンは愛する人たちと、いつか再び神さまの前でまた会うときがあるという信仰に立っています。ですから先に神さまのもとに召された方々を覚えるのはごく当たり前なことでしょう。私たちは生きているときも、また死んだ後も共にいてくださる神さまの前に愛されている一人ひとりとして、神さまの愛を感謝していくことができればと思います。

先ほどは旧約聖書からダニエル書を読んでいただきました。この物語にも、死すら越えて私たちと共にいる神さまの愛が証しされています。クリスチャンにとって「死」は、すべての終わりでも、永遠の別れでもありません。もちろん、愛する者同士の別れの悲しさはよく知っています。しかし、そこですべてが終るのでもないこともよく知っているのです。十字架の死の苦しみを知るように、それを越える復活の希望があることを知っているからです。ですから、私たちは本当の意味で絶望しません。死ですら、まことの終わりでも絶望でもないのですから本当の意味で恐れるものなど何もないのです。どのような苦しみと悲しみの中にあろうとも、希望の光を神さまにこそ見つけ出せるのです。

このダニエル書の主人公ダニエルは、バビロニア帝国で活躍したユダヤ人の一人です。今から約2600年前、ユダの国はバビロニア帝国との戦争に敗れ、その都バビロンに強制的に連行されて捕囚の民として生活していました。その中にダニエルもいました。ダニエルは聖書の神さまに対する信仰深い人でもありました。そして非常に優秀な人でしたので、バビロニアの王室に仕え異国の地で王の側近としても働きはじめます。ただし、今朝の場面は1つ戻りまして5章の最後の31節に「メデアびとダリヨスが、その国を受けた。この時ダリヨスは、おおよそ62歳であった」。こうありますので、バビロニア帝国のあとの時代です。

ここでダニエルはメデア人のダリヨス王のもとで、他の二人の大臣と共に政治を任せられていました。ダニエルは非常に才能があったので、ダリヨス王はダニエルのことを最も気に入っていました。しかし、ダニエルをねたんだ他の2人の大臣はダニエルを陥れようと策をめぐらします。2人の大臣はダニエルが聖書の神さまに対して信仰深いことに目をつけました。そこでダリヨス王に次のようなことを言います。「これから30日間、王様をおいて他に神であろうが人であろうが願いごとする者があれば、どんな人でも、ししの穴に投げ入れられる、という法律を出してください」。かつての日本の天皇崇拝のようなことをさせるのです。これは、単にダニエルを陥れるための法律でしょう。しかし、不思議にもダリヨス王はその禁令の文書にサインをしてしまいます。あまり思慮深い王様ではなかったのでしょうか。これが後で大変なことになろうとは、ダリヨス王自身気がついていませんでした。そして、2人の大臣の思惑通りに法律を犯したダニエルは王様に訴えられてしまいます。

今朝の箇所は、その訴えを王様が聞いた後の物語です。14節と15節、「王はこの言葉を聞いて大いに憂え、ダニエルを救おうと心を用い、日の入るまで、彼を救い出すことに努めた。時にその人々は、また王のもとに集まってきて、王に言った、『王よ、メデアとペルシャの法律によれば、王の立てた禁令、または、おきては変えることのできないものであることを、ご承知おきください』」。王はダニエルを救おうと悩みましたが、一度自分の出した法律をすぐに引っ込めるわけにもいきません。ここには、人間の作り上げる制度の限界といったものが表されているようです。そして大昔の話しというよりも、現代の私たちにも通じること、日の丸・君が代の問題であったり、教育基本法の問題であったり、何か最近の私たちの国の問題を考えさせられるテーマのようにも感じます。一度立てた禁令、法律には逆らえない。日の丸を掲げ、君が代を歌わなければ厳しい罰を受ける。この国もそうした窮屈な社会になっていくのでしょうか。

法を犯したダニエルは、ししの穴に投げ入れられます。16節の前半、「そこで王は命令を下したので、ダニエルは引き出されて、ししの穴に投げ入れられた」。お腹のすいた強暴なししの穴に放りこまれます。けれども、翌朝、22節と23節、「『わたしの神はその使いをおくって、ししの口を閉ざされたので、ししはわたしを害しませんでした。これは私に罪のないことが、神の前に認められたからです。王よ、わたしはあなたの前にも、何も悪いことをしなかったのです』。そこで王は大いに喜び、ダニエルを穴の中から出せと命じたので、ダニエルは穴の中から出されたが、その身に何の害をも受けていなかった。これは彼が自分の神を頼みとしていたからである」。ダニエルは、ししの穴から出てきます。その晩一体何があったのか、詳しいことは分かりません。神の使いがししの口を閉ざしたとあるだけです。詳しくは分かりませんが、しかし聖書がはっきりと私たちに伝えていることは、この世の人間の陰謀、策略、そして肉体の死をも、神さまの前にはもはや何の力もないのだということです。神さまからダニエルを引き離すものは、あらゆる人間の力も、死すらも何もないということです。ここにまことの希望があります。

そして今度はダニエルとは対照的に2人の大臣が、妻子まで共に王様の残酷な命令に従わされてししの穴に投げ込まれていったのです。この世的にのみ生きようとした人間の悲惨な最期です。人は生きてきたようにしか死ねないということを教えてくれます。希望に生きた人は、死に際しても希望をもって死に臨めます。絶望に終らない神の希望をもって生きたいと思います。

最後に、世界中の注目が集まりますワールド・カップサッカーがドイツで開幕しました。先日、決勝戦の会場となる五輪スタジアムに建てられた彫刻がナチス・ドイツ時代に造られたものということで、撤去すべきだという意見が出ているという話が新聞に紹介されました。その記事の関連ですが、同じドイツで闇の時代になお希望の光をもって人生を生き抜いたクリスチャンで彫刻家のエルンスト・バルラハという方のお話しをして終わりたいと思います。ご存じの方も多いと思いますが、バルラハの時代、特にその晩年はヒトラーのナチスが政権を取り戦争の陰が次第に濃くなっておりました。ナチスは、自分たちはドイツ的なクリスチャンなのだと言いました。けれども、ユダヤ人に対する迫害だけでも明らかなように、それはもはやキリスト教とは到底呼べないものでした。聖書すら違います。ナチスは聖書からユダヤ的なものを取り去ると言って、その大部分を削り自分勝手な「聖書」を作り上げていました。

こういう闇の時代、純粋に聖書そのままの信仰に立つ人々は迫害を受けました。そのひとりにバルラハがおりました。彼の作品はゲルマン的剛勇の気を損なう「退廃芸術」として、徹底的に処分されていきました。彼は反戦と信仰を訴える作品を作り続けたために芸術界から追放され失意のうちに、最も闇の暗かったであろうナチス全盛期の1938年に亡くなっています。

しかし、バルラハは絶望に死んだのではありませんでした。死の闇の迫る時代に、希望の光を作り続けました。それは信仰によって、死の闇を照らすまことの光でした。バルラハは多くの優れた作品を作りましが、ここでは失意のうちに死を前にして刻んだといわれる『笑う老女』に関する解説を短くご紹介いたします。

小塩節先生の解説ですが、次のようにあります。「バルラハは失意のうちに、晩年を過ごした。芸術家の栄光と悲惨があった。栄光は神につながり、悲惨は人間の弱さであった。私は彼のこの失意のいたましさに胸ふさがれる思いがする。しかし、時代の惨たる中で、彼は嘆きと憤りを持ちつつも、神に向かっては朗らかであった。死を前にして刻んだ『笑う老女』の木彫(中略)。手をひざにして、日本人のように座っているこの老いた女は、肩をすくめて笑いこけ、笑い倒れそうだ。肩の線の丸さと能面のように単純化された目もとと鼻、農民ふうの口もと。高さ84センチほどの木彫に、辛い困苦の中にあって、彼のなお失わなかった、芸術と神ゆえの「笑い」が感じられる。詩篇の『天に座するものは笑い、主はかれらをあざけられるであろう』(詩2:4)のこころで、彼はナチをお腹の底で笑った。肉体は打ちひしがれていたが」。写真から、実際の作品を見ますと、心底、喜びにあふれている様子が見事に伝わってくる作品でした。バルラハはあの闇の時代を越えていく希望の光を、しっかりと見出していたのでしょう。失意の中にあってなお人生の最後の作品が、腹の底から笑う女性の姿であることに改めて闇に打ち勝つ神の力を感じました。

私たちも死の暗闇に希望を失くしてしまいそうなときがあります。そのときはダニエルやバルラハと共に、死の闇に打ち勝つ神にこそ希望の光を見上げていきたいと思います。

                                        (森 淳一)    

2006年6月11日(日)主日礼拝宣教要旨

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