神に愛された命

16もし、あなたに悟りがあるならば、これを聞け、わたしの言うところに耳を傾けよ。 17公義を憎む者は世を治めることができようか。正しく力ある者を、あなたは非難するであろうか。 18王たる者に向かって『よこしまな者』と言い、つかさたる者に向かって、『悪しき者』と言うことができるであろうか。 19神は君たる者をもかたより見られることなく、富める者を貧しき者にまさって顧みられることはない。彼らは皆み手のわざだからである。 20彼らはまたたく間に死に、民は夜の間に振われて、消えうせ、力ある者も人手によらずに除かれる。 21神の目が人の道の上にあって、そのすべての歩みを見られるからだ。 22悪を行う者には身を隠すべき暗やみもなく、暗黒もない。 23人がさばきのために神の前に出るとき、神は人のために時を定めておかれない。 24彼は力ある者をも調べることなく打ち滅ぼし、他の人々を立てて、これに替えられる。 25このように、神は彼らのわざを知り、夜の間に彼らをくつがえされるので、彼らはやがて滅びる。 26彼は人々の見る所で、彼らをその悪のために撃たれる。 27これは彼らがそむいて彼に従わず、その道を全く顧みないからだ。 28こうして彼らは貧しき者の叫びを彼のもとにいたらせ、悩める者の叫びを彼に聞かせる。 29彼が黙っておられるとき、だれが非難することができようか。彼が顔を隠されるとき、だれが彼を見ることができようか。一国の上にも、一人の上にも同様だ。 30これは神を信じない者が世を治めることがなく、民をわなにかける事のないようにするためである。
ヨブ記 34:16-30

今日は旧約聖書から「ヨブ記」を読みます。ヨブ記は、ヨブという非常に信仰深く、その行いも正しい人が、不思議にも立て続けて災難に遭う話しです。持っていた財産や家族を事故や災害で失う。自分も病気になる。ヨブは、深く悩みます。神さまがいる、というなら、なぜこういう理由のない苦しみが続くのか。神さまは本当におられるのか。神さまに従って生きようとすることは、本当に意味のあることだろうか。今朝の箇所はそうした迷いの中にあるヨブに、エリフという一人の賢人が助言をしにやってくるという場面です。

エリフはヨブに言います。19節、「神は君たる者をもかたより見られることなく、富める者を貧しき者にまさって、顧みられることはない。彼らは皆み手のわざだからである」。ヨブよ、あなたは神さまが何もしていないかのように思っているかもしれない。けれどもそうではない。神さまは、たとえ「君たる者」、つまり「身分の高い者」であろうが、「富める者」であろうが、特別扱いすることなくすべての人を見ておられる。さらに、21節、「神の目が人の道の上にあって、そのすべての歩みを見られるからだ」。神さまは、この世において成功している人も逆にそうでない人も、関係なくすべての人の道をご存じである。

ヨブも以前には財産も家族にも恵まれた、この世で成功したと言われるような人でした。しかし、それらを一度に失いました。この世的には人生の敗北者と呼ばれるような状態になりました。けれども、だからと言ってヨブが人生に失敗したわけではない。神さまはこの世的な成功、失敗を見ておられるのではなく、その人が神さまに従うかどうかをこそ見ておられる。25節から27節、「このように、神は彼らのわざを知り、夜の間に彼らをくつがえされるので、彼らはやがて滅びる。彼は人々の見るところで、彼らをその悪のために撃たれる。これは彼らがそむいて彼に従わず、その道をまったく顧みないからだ」。神さまは、たとえ社会的な地位が高くても、金持ちであろうとも、もし神さまに従わないなら、それらの人々を撃たれるというのです。

ここで神さまに従うとは、「その道を顧みる」こと、つまり神さまの道を受け入れることだとわかります。ヨブが、たとえこの世の目に見えるすべてを失ったとしても神さまを信じ希望を持ち続けるならば、これまで通りヨブの人生を神さまはしっかり見て愛し続けてくださる。その人生は価値あるものだと語り続けてくださるというのです。

しかし一方、現実を見渡せば、現代は「格差社会」などと言われ、自分のためだけに生きて社会的に成功した人が勝ち誇る世の中のように思えます。そうだとすれば、ではこういう神さまの道を顧みない人たちに対する裁きとは何でしょうか。その一つは、神さまにその人生を認めてもらえないということです。つまり、その人生がまことに意味ある価値ある人生だったと、神さまが認めないということです。あるいは、ヨブ記にはそういう裁きを受けた人々は「年若くして死ぬ」(ヨブ36:14)、という言葉もあります。新共同訳聖書では肉体の死というよりも、魂の死を意味した訳となっており、たとえ身体は生きていても、その魂が死んでしまうというのです。たとえば、表面的にはその社会的な成功のゆえに、羨ましがられる人生があるかも知れない。けれども、深いところでは意味ある価値あるいい人生と実感することがなかった。ただ欲望のままに生きるだけだった。身体は生きていても、魂が死んでしまっていたからだ。これがヨブ記では、神さまの裁きの一つとして出てくるものです。

考えてみますと、今の日本において、生きる意味というものが失われつつあるのは確かでしょう。身体は生きていても、その魂が死んでしまっている。無気力で、何がしたいのか自分でも分からない。生きている実感がない。そうした人は決して珍しくありません。

しかし、それでも、多くの人は何か本当の生る意味を求めているでしょう。自分の人生を意味ある価値あるものにるす何かを、求めて生きているでしょう。では、私たちの生きる意味は何でしょうか。人は生き甲斐を求めて、どうするでしょうか。多くは何かを頑張って、これまでに無い新しい自分と言ったものを手にしようとするのかも知れません。頑張って前向きに生きて、自分を高めていこう。新しい何かを手に入れよう。そうすれば何か生きている実感というものが湧いてくるのではないか、そう考えるかも知れません。もちろん、こうした生き方は私たちに必要ですし、何かに向かって頑張る、努力するということは大切なことでしょう。ある意味、健全な生き方かもしれません。しかし、それで私たちの人生がすべて満たされるわけでも、また生きる意味を根本から与えてくれるわけでもないようです。聖書もそれが人間の生きる力の源、元気のもとだとは申しません。

なぜでしょうか。一つには、そうした生き甲斐というものが、やはり一時的なもの、ある限られたものにすぎないからかも知れません。またあるいは、頑張る方向や意味がよく分からないからかも知れません。頑張って、努力して、何か新しいものを手に入れる。その時は嬉しいかも知れない。けれども、その喜びは長続きしない。何か空しくなる。それでまた別な新しい何かを得ようとして頑張る。繰り返して、いつか本当に疲れ切ってしまうこともあるでしょう。

なぜ、人は頑張ることによって、まことの生きる意味を手にすることができないのでしょうか。ある学者は次のようなことを述べていました。例えば、先ほどの私たちが考える生き甲斐、頑張って何か新しいものを手にしよう、頑張って少しでも自分を高めて生きていこう。そう言ったことは、どこか人の目を気にした行為だと言うのです。あるいは何か他のものとの比較から出てくる価値観だというのです。もちろん、すべてがそうだという事ではないでしょう。自分が本当にやりたいことを一生懸命することができるなら、それは何と有り難いことでしょうか。しかし、多くは他人との比較の中で、また人の目を気にしながら頑張り続ける生き方なのではないか、と言うのです。

では、どうすれば生きる意味を手にすることができるのでしょうか。答えの一つは、他人の目を超える世界、比較から出てくる価値観を超える世界に触れることだと言われます。つまり、簡単な例では、自然に触れることです。そのとき、人は癒され生きている実感を再び得るようになります。自然には、人の目は関係ないからです。

そして、そうであるならば、人間の価値判断を超えていく神さまに出会うときこそ、人は本当の癒しを経験し、生きる実感を得ることができるでしょう。比較から出てくる価値観にだけ頼るなら、人は疲れてしまいます。人の目を気にしてばかりいるなら、息が詰まってしまいます。いつしか魂も元気を失っていくでしょう。現代社会において、このことは私たちに大切なことを教えてくれるのではないでしょうか。

ヨブ記の最後の数章は、まさにそのことを表現しています。そこで神さまは、人間の理解を超えるものとして現れています。この広い世界を見てみなさい、広大な宇宙を見てみなさい。目の前にいる、カバやワニをも見てみなさい。その創造の不思議とすべての命を愛する神のわざを見てみなさい。そして、その神さまは言うのです。ヨブをこそ掛け替えのない大切な命として造られたことを。神さまは、ヨブをはじめ一人ひとりの命を大切なものとして造ってくださった。そして聖書全体からの言葉で言えば、一人ひとりをまずはそのままで愛してくださる。それも、その独り子イエス・キリストをあなたの代わりに十字架につけるほどに、あなたを愛してくださっている。この聖書の告げる福音をしっかり心に受けとめていくとき、私たちは本当の生きる意味を手にしていくことができるのです。

今朝のヨブ記のように、神さまに従わない人生、つまり他の人の目や他者との比較から生まれる価値観だけに振り回される人生において、私たちの魂は元気を失っていくのではないでしょうか。そうではなく、神さまに従う人生、つまり、神さまの愛を知り自分の命の掛け替えのなさ尊さを知る人生にこそ、生きる意味、生き甲斐というものはうまれるのです。まずは、神さまに愛された命である自分をまずしっかりと覚えながら、それぞれに与えられた掛け替えのない人生を歩いていきましょう。

                                        (森 淳一)    

2006年5月7日(日)主日礼拝宣教要旨

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