今朝、皆さんとご一緒に礼拝を守ることが出来ます恵みを感謝します。週の初め、与えられました聖書の言葉に耳を傾けていきたいと思います。
さて、私は名古屋教会に来る前に、しばらくお休みを頂きまして九州の福岡から郷里の仙台に帰っておりました。長い休暇となりましたが、振り返ってみますと、4月から再び働きに出る前に、私に必要な“恵みのとき”とでもいうような時間でした。牧師としての重い責任から、しばし解放されたのも恵みですが、何よりも自分自身というものを、少しは、改めて見つめる機会が与えられたのではないかと思います。この「自分を振り返る」ということは折りに触れ、誰もがすることですが、人生の節目や試練に遭うようなとき、私たちにはこうした機会がより多く与えられているのではないでしょうか。
私は教会の牧師の務めを、「休職」という形ではありましたが辞めて、社会において言ってみれば、何の肩書きもない何にも属していない者となりました。もちろん、今、この日本において、そうした状況にある方は決して珍しくありません。しかし、頭でそういう事があることを知っているのと、実際に自分がそうであることは、やはり違うことでした。それでも私などは、短い期間で、次に進むべき道を示していただきましたので大したことではありませんが、それでも、この社会において一旦、自分自身の居場所を失った時、少し大袈裟に言えば「わたし」とは一体何者なのか、何にも属していない「わたし」とは一体なんなのかと言った、一種、存在に対する不安な気持ちも起こりました。けれども、実はそのような時だからこそ、改めて、この「わたし」という存在に、それも「裸の」と言いますか、「そのままのわたし」という存在に語りかけてくる聖書の“私を必要な者とし、私を愛している”、と語る言葉が、いつも以上の素直に心に響き、励ましと勇気を与え続けてくれたと思います。
今朝、お読みいただきましたみ言葉は、一度、裸になって、初めのスタートに戻って、再び歩き始めようという私には大変有難い神様からの語りかけでありますし、また、皆さんにとっても、それぞれに信仰生活を続けていく上で、何かの節目には是非、繰り返し心に留めて頂きたいみ言葉の一つです。
さて、マタイ13章44節から46節には、「天国のたとえ」ということで、2つの宝を発見した人たちの話が印象深く記されています。最初の譬えに登場する人は、恐らく古代のパレスチナ地方で、主人の畑を耕すために日当を目当てに雇われている貧しい小作人のような人ではないかと言われます。この人は、隠された「宝」については、一言も土地の所有者に告げませんでした。でも、こっそり宝だけを盗む泥棒行為は避けました。土地の所有者には、「持ち物をみな売り払い」、お金を支払いました。全財産と引き換えに、倫理的には問題が残りそうですが、合法的な方法で「畑」を手にしたのです。しかし,合法ではありましたが、「宝を発見した人」はその人の努力とか才能とか、それまでの業績がものを言って「宝」を見つけたのではない。そういう人間が持っているものとは関係なく、まったくの恵みにより「隠された宝」を発見したことが分かります。私たちの資格や、条件ではなく、「隠された宝」は、ただ「恵みによって」与えられる。だからこそ、ただ「喜びの余り行って持ち物をみな売り払い、宝が隠されている畑を買う」、そういう普通ではない、特別も特別な喜びで、人生で一番求めていたものを手にすることのできた人の生き方が描かれています。>
この譬えで「宝」とは、無条件の神様の愛です。別な言い方で言えば、イエス様によって、つまりあの十字架の愛によって罪を赦され、神の子として生きることが赦されている恵みです。この「宝」が「畑」とういうこの世界の中に、神さまから隠されて与えられている。人間の資格や才能ではなく、ただ神の恵みへの驚き、という信仰の目をもって、「発見した人」にのみ見える「宝」です。考えてみて下さい。この私のために、十字架にまでかかってくださる、という愛を、皆さんはどうやって手にしますか。そもそも、そんな無条件な愛など、私たち人間の世界にあるはずもないのです。いくらお金を出したところで、いくら努力して頑張ってみたところで、見つかるはずもない「宝」。あるはずもない「宝」です。その「宝」を神さまは、何の条件も付けずに、「畑」というこの世界に与ええられた。そこで、神様の恵みという「宝」を発見した人は、この「宝」のゆえに、「畑」という世界を丸ごと買い取って、そして「持ち物をみな売り払う」のです。神さまの恵みという「宝」のために、自分に与えられた持ち物をすっかり売り払う。つまり、与えられた時間、富、才能などを感謝し、喜んで捧げていく生き方を始めたというのです。自分のすべてを掛けても、生きて甲斐ある人生。その「宝」のために生きる生き方は、真に意味ある、価値ある生き方だとイエスさまは言われるのです。
これは、まず私たちクリスチャンにとって、大切な生き方です。この世の朽ちて無くなるもののためではなく、朽ちることのない「宝」のために、聖書はそれを「イエス様に現された十字架の愛」だと言いますが、その愛に生かされ、その愛に向かって歩む人生こそ、朽ちることのない、空しくない生き方なのだというのです。真の「宝」のために歩む人生を、一人ひとり始めて行かないかとイエスさまはおっしゃるのです。ここで、良く思い出すことは、マザー・テレサが亡くなった時の新聞の記事です。彼女が最後に遺したものは、2枚の木綿のサリーと布袋など僅かなものでしたが、彼女が蒔いた愛の種は世界中に広がり、いま豊かな実を結んでいます。
そして、もう一つ、マタイの13章45〜46節。この第二の人は、まさしく「真珠オタク」とでも呼ぶべき商人のような人かも知れません。では、そんな人が待望の「高価な真珠」を発見したら何が起こったでしょうか。この商人はそれまでため込んでいたすべての真珠もお金も全て売り払い、その「高価な真珠」を買い取ったというのです。なぜでしょうか。確かに人の目には、この商人の知識や粘りが決め手のように感じます。しかし、「たった一つの高価な真珠」の方が、結局この商人を捕らえ、商人の心を釘付けにしてしまったのです。だからこそ、「商人」も、第一の小作人同様に、人生全体をこの「真珠」によって「ひっくり返された」のではないでしょうか。
この「真珠商人」の姿と、「信仰生活」との関係を考えてみますと、私はあの伝道者パウロのピリピ人への手紙3章5節からの言葉を思い出します。特にパウロは、8節で「主イエス・キリストを知る知識の絶大な価値のゆえに」、「いっさいのものを損と」思うようになったというのです。「お宝発見」による何というどんでん返しでしょうか。パウロも、「一つの高価な真珠」である十字架と復活のキリストに出会い、捕らえられると、そのために彼が手にしていたものを手放して、この「一つの真珠」にすべてをかけたのです。キリストに比べれば、この世で私が得たものなど、「ふん土」とさえ言うのです。すごい言葉です。さて、それでは私たちはこの商人の喜びをもって、また、パウロの感激をもってキリストという「宝」をいただいているでしょうか。正直申しまして、私などはこの「宝」の尊さをよく忘れてしまっていると思います。この世の他の「宝」のようなものには、お金が少し儲かったとか、人から褒められて名誉を受けたとか、そういう事には大喜びするくせに、この真の「宝」の有難さは、本当にはよく分かっていない私です。
しかし考えてみますと、結局、私たち人間というものは元来そのような者でしかないのではないでしょうか。だからこそ、真の宝としてこの世に来て下さったイエス様を、私たち人間は十字架につけて殺したのです。まさに今、受難節の出来事です。もともと、「お宝」を見つけられる目など持ち合わせていないのです。では、どうしたら「お宝」を見つけることが出来るでしょうか。小作人や真珠商人のように、真の「宝」に人生を掛けていく生き方が出来るでしょうか。それとも、これは土台、私たちには無理な世界の話でしょうか。
もちろん、そうではないでしょう。ここで思い出して頂きたいのは、小作人にせよ、真珠商人にせよ、一見その人たちが主役のように見えて、実はその人の努力とか才能とか業績がものを言うのではなく、言ってみれば「宝」の方がその人たちに出会ってくれた物語だと言うことです。「真珠」のほうが、商人の心を釘付けにして離さなかった話です。キリストが、まず一歩も二歩も何歩でも私たちに近づいてくださったからこそ、私たちはキリストという「宝」に出会うことができたのです。イエスさまが、まず私たちを捕らえてくださるからこそ、私たちはこの世のものには替え難い「宝」に出会う事が出来るのです。ただただ、感謝なことです。私たちに必要なことは、素直に心から感謝して、その「宝」を頂くことだけです。本当に「ありがとうございます」と言って、求めることだけです。そして、そのような素直な心は、私たちが裸であるような時に、神さまに頼るほか道のないようなこころ砕かれた時に備えられるもののようにも感じます。
そして、ここまで読んできまして、最後のことですが、今のこととの関連で、この「宝」について、もう一つ触れておきたいことがありますので、そのことを少しお話しして終わりたいと思います。
今、この譬えは小作人や真珠商人が、一見、主役に見えると申しましたが、イエスさまがなさった他の譬え話にもあるように、この譬え話にも一つの大きな「どんでん返し」といったものがあります。それは、この譬え話が言ってみれば「宝を発見した人たちの話」ではなく、「宝が発見した人たちの話」です。つまり、人間が主役ではなく、聖書の物語の主役は、いつも神様でありイエスさまです。「宝」が、つまり神様がイエスさまが、私たちを見つけてくださる、出会ってくださる、そういう話なのです。先ほど申しましたように、イエスさまの方から、まず一歩も二歩も、それ以上も、私たちの方に近づいて来てくださるのです。そして、それも、もっと言うならば、「ただの私たち」というのではなく、私たちをこそ真の「宝」、掛がえのない「真珠」として出会ってくださるというのです。驚きの物語です。
旧約聖書の申命記7章6節から8節には、直接的には、イスラエルの民に語られた言葉ですが、今や、私たち一人ひとりに語られる神の言葉として、神さまは私たちを「ご自分の“宝の民”とされた」と言われるのです。そして、それは「ただ、主があなたがたを愛した」ゆえに、私たちを神さまの「宝」として「真珠」として出会ってくださり、掛がえのないものとしてくださるのです。私たちが「宝」や「真珠」であるのは、ただ神さまの側からの働きによる以外にあり得ません。私たちのようなまったく「宝」でないものを、神さまはイエスさまにおいて、ただ恵みにより「宝」とみなしてくださるのです。
皆さんの人生の「宝」は何でしょうか。何に向かって歩いておられるのでしょうか。私も、今日から始まります新しい出発にあたり、この世の朽ちる「宝」にではなく、真の「宝」のために、そして無きに等しい私をも「宝」として愛してくださる神の言葉に支えられ、この礼拝から遣わされて行きたいと願います。
(森 淳一)