今、世界にある全てのキリスト教会は、教会歴で言うレント、受難節を迎えている。私たちの教会の受付に、今年もYさんの作って下さったレントカレンダーが置かれているが、これは主の十字架への歩みに心を寄せながらイースター(今年は4月16日)に向かって、共に聖書を読んでいこうということで用意されたものである。今、お読みした箇所は、その中で今日読むように示されているところである。宣教題を、26節の「人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか」からとって、「人はどんな代価を払って」にしようと考えたが、その前に、すでにイエスキリストが、その代価を払われているということを思って、「イエスの代価」とした。すでにイエス・キリストは十字架にかかり、その贖いによって、私たちを神に生きるものとして下さったということ、それはまた、私たちがこれからの自分の人生をどう生きるか、ということにかかってくる。
話は変わるが、ある方が、久し振りに親子のスキンシップを考えて、中学生の息子が見たいという映画に付き合い、その後、ツインタワーの八階で食事をした。窓際のいい席に案内されたが、回りが皆アベックだったせいか、二人共食べるだけで話が出来なかった。むしろ何でもない席の方がよかったかも知れないと思い乍ら、帰りはすぐ地下鉄に乗らないで、ひと停留所程歩いてバスに乗るというコースを選んだ。自分としては、そこでお互いに何か話が出来ることを期待していたが、全く会話がなかった、ということを言われた。一つには普段、お互いに自分のことに追われて(父親は仕事に、息子は勉強と部活に追われる)という中で、一緒の時間を持つということが、必要ないことになっていた。そのことにあまり価値を置いてこなかったということがあるが、もう一つは、自分のアイデンテイテイ――自己確認をどこでするか。親であり、子であるということ、あるいは自分自身をどこで感じるかということになる。そういう意味で親子の関係にしぼって言えば、会話の内容がどうしても学校のこととか、部活、試験は、ということに限られてしまう。会話がそういう事だけで終わってしまいがちになる。子どもはまた親の自分に対する期待とか愛情を、そういうところで受けとめるようになってしまう。本当は一緒に空を眺めるとか、本を読むとか、聖書の話をするとか、一緒に祈るとかいうことで、お互いの関係、つながりをつくっていって欲しいと思う。
現代は、自分がどう感じるかとか、自分をどう表現するかということに、社会全体がライトを当てがちだが、そういう意味から言うと、今日の聖書の箇所で、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」という主イエスの言葉、またそれに続く「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。」という言葉はとても分かりにくいところである。只、次の26節に「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、何の得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」という言葉から、ここで「命(いのち)」と表現されているものは、この私の存在そのもの、つまり私の魂の姿、育ちゆくものとしての魂の種、そのようなものをさしていることが分かる。
数年前にこの教会の礼拝で宣教のご奉仕をして下さった加藤常昭先生は、著書の中でこの箇所に関して、「人が全世界を手に入れても、それを失ったらどうしようもない、と言われる程に大きな価値をもつ自分、そういう自分をあなたは見つけているか。」という、ここはそういう問いだ、と書いておられた。(加藤常昭説教全集8)
私たちは、そのことを大切に、課題として持っていくことが必要である。その次に「自分を捨て、自分の十字架を負うて」という言葉は、自分が一粒の種として育つ姿よりも、何か今の環境にただ耐えていく、自己犠牲的な姿を想像してしまうが、これは、主に従おうとする者は、自分を主とする生き方をしないということである。自分を捨てたら自分の個性や主体性はどうなるのか、結局自分を失うことになるのではないかと思われるかも知れないがそうではない。これは生きていく上での中心(重心)を何処に置くかということである。むしろ本来的な意味で自分を取り戻すことであり、自分を生きることである。私たちは、すすんで他者のことを考えるより、自分を主(中心)にして、もの事を考えたり行動することが多い。「自分を捨て」というのは、自分を主にしたところから起こってくる自分の感情のことである。それがどういうものであるかということを、私たちは自分自身と取り組んで、はっきりと知っていくことが必要である。この言葉は、そうした自分の中にある、神の意にそわない気持ちとの切れ、決別、戦いを意味している。
以前、教会の青年たちが、「十字架の挑戦」という題の劇を、クリスマスやイースターに何度かやったことがある。手元に台本がないので正確ではないが、そこには、いろんな人や大小さまざまな型の十字架が出てくる。一つの十字架は、イエスが負われたような荒削りの重たいもので、ある人はこの十字架は自分に重すぎると言い、ある人は、自分にはもっとスマートで負いやすいのがいいと言い、ある人は、自分にはペンダントのような飾りのものがいいと言う。また、ある人は「自分は大きくてもいいが、一寸ひと休みしたい」とか、いろんな言葉があった。確かにそれぞれ十字架につながってはいるが、まず自分があって、十字架を選んでいる。神のみ心を問う前に、自分の考えや思いが先行する。そして主が備え、与えようとしておられるものを本当に受けて行くことがむつかしくなる。この劇は強烈な印象で、今も私の中に残っているが、私たちにとって大切なことは、自分がどういうものとされているか、自分がどういうものであるかを知らされているということである。そのことをしっかり受けとめたい。
私たちは、イエス・キリストが、父のもとから送って下さると約束された聖霊の働きによって、神によって創られた人間としての成長、生き方を悟っていく力が与えられている。私たちのいのちは、イエス・キリストの代価によって、すでに神のもとに確保されている。私たちは全身全霊をもって、この恵みを充分に悟り、この身に受けて、終わりの日に備えたく思う。