さめていても眠っていても

4しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。 5あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。 6だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。 7眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。 8しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。 9神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。 10キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。 11だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。
テサロニケ人への第一の手紙 5:(1-3)4-11

成岡ふさのさんが3日の朝天に召された。享年98歳。それからもう10日近く経つが、何か大きな歴史のうねりが越えたような気がする。信仰の道に入られたのが18歳の時だから、信仰歴80年ということになる。聖書に「あなたの目の前には千年も過ぎ去ればきのうのごとく、夜の間のひと時のようです。」(詩篇90:4)とあるが、ふさのさんはその神のみ許に召されたのである。付き添ってこられた長女の信子さんが、孫の澄香ちゃん(4歳)に、「おばあちゃんはどこに行ったのだろうね。」と聞いたら、「天国だよ」。「どうやって行ったんだろうね」。「それはね、雲に乗ってふあふあっと行ったのよ。」と答えたそうである。私たちは、主の祈りの中で、「天にいます私たちの父よ」と祈るし、また自然な感情として、この世を去った身内も天の何処かで自分のことを見守ってくれているように思う。

たとい主のもとで眠っていても、眠りの中で、自分たちのことを見ていてくれるように思う。そういう意味で、信仰をもたないで召された身内のためにも、私たちはとりなしの祈りをささげることがたいせつである。

考えてみると、私たちは自分の目で見える範囲、自分の耳で聞く範囲、自分で分かる範囲でしか、物事も、自分のことも分からない存在である。しかし、分からない世界があることをわきまえることは大切なことである。詩篇127に、「主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。」(2)とあるが、自分の意識の届かない状態の時もまた、主のみ思い中にあるということである。

話はかわるが、昨日からトリノ冬季オリンピックが始まった。70の国と地域から集まった5,000人の選手たちが各種目に分かれ、最善の記録をめざして能力とわざを競い合う。そして、今や勝ち負けの差は、分ではなくて0.何秒である。私たちもまた、いろんな意味で比較と競走の世界に生きている。早いことがよいこと、強くなることとされる時代の中で、だからこそ立ち止まって、変わらないもの、永遠なるものに心と目を向けていくことが大切である。私たちは完全な者でも不死の者でもない。自分がいつ肉の体をもった者としてのもろさ、弱さを知るのか分からないが、しかし、どのようなかたちにせよ人には終わりがある。そして、その終わりは終わりではない。死は死で終わらないことを聖書は記している。

最近手にした本のはじめの方に、創世記の天地創造の記事にふれて、「とても面白くまた大切だと思うのは、『神は言われた』という言葉です。『光あれ』と神は実際に言ったのです。黙って神さまが造ったのではない。言葉というものが最初に出てきて、・・・」という一文が目にとまった。(富岡幸一郎著「聖書をひらく」編書房あむしょぼう)更に、ヨハネ福音書第一章の「初めに言があった。言は神と共にあった。この言は、初めに神と共にあった。・・・」(新共同訳)にもふれているが、この「言」とは、言うまでもなく、神の心、意志を伝えるイエス・キリストのことである。イエス・キリストは、何故苦しまれたのか。何故十字架にかかられたのか。主イエスの御生涯は何であったのか。

そこで、語られたこと、なされたわざは、只、父なる神の御心を伝えるためであった。(ヨハネ5:19-39 他)私たちが求めさえすればだれでも得ることが出来るように、神の事実、かかわりは備えられているのである。

「さめているときも眠っているときも」の「眠り」は、4章13節以降で記されているように、「死」を意味している。そうすると、「死」においても「主と共に生きる」ということになる。この言葉は、死の時もまた神の御手の中にあるということである。どのような状態の自分も、神に受けとめられているということを覚えて生きることが、神の前に誠実に生きるということになる。「さめているときも眠っているときも」ということは、私たちに非常に大きな安心と希望を与える。

聖書はここで、時に関連してもう一つ大事なことを語っている。それは、私たちに予測の出来ない、しかし、確実に臨む「日」のことである。「兄弟たちよ。その時期と場合とについては、書きおくる必要はない。あなたがた自身がよく知っているとおり」とある。「よく」というのは、あいまいにではなく、正しく、厳密にということである。2節のこの「主の日」というのが、それである。

別のところでは、「終りの時」(Tペテロ1:20 他)「終りの日」(ヨハネ12:48 他)という言い方で、その日のことが語られている。それは、全てのものが神の前に明らかにされ、審きを受ける日のことである。主イエスも福音書のあちこちで、ある時はたとえを用いてその日のことについて語っておられる。マタイ24:37-39では、「人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。」とある。

その日が突如として、しかも確実に来るということは、私たちの日々が、そうした中にあるということである。次にパウロは「しかし、兄弟たちよ、わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。」(5,6)と言っている。「目をさまして」というのは、油断しない、注意をおこたらないということ。「慎んで」というのは、原語から言うと、酒に酔っていない、素面(しらふ)の状態のことである。

その昔、イスラエルの民がミデアンびとと戦った時、ギデオンは主の言葉を受けて、水の飲み方を観察し、多くの民の中からひざを折り、手を口にあてて水を飲んだ者たち300名を選んだ。それは、どこから敵に襲われてもとっさの行動がとれるということである。(士師紀7章)このことから、私たちはこの世にあって、無防備であってはならないことと、今がどういう時であるかということを教えられる。パウロはまた、「あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。」すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時がすでにきている。」(ローマ13:11)と語り、その時を知る者として、捨てるべきもの、身に着けるべきものを記している。

聖書は私たちに、先からの時、私たちがこれから突入すべき時について語る。10節の「キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。」というみ言葉は、私たちに進むべき方向と、生きていく土台が既に備えられていることを伝えている。それは人が自分をどう見るか。自分が自分をどう見るかということでなく、主と共に生きるようにと召されている私たち一人ひとりが存在するということである。

2006年2月12日(日)主日礼拝宣教要旨

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