私たちの生活の基本、そして一週間は、日曜日を「主の日」として覚え、大切に守ることから始まる。そして、私たちの感覚では、年のはじめにまず元旦礼拝を迎え、次に来る日曜日を新年礼拝として守るということになっていたが、2006年は、今日のこの「主の日」の礼拝から新しい一年が始まる。こうして一つの会堂に集まり、礼拝を守り、十字架と復活の主を共に讃美出来ることを心から感謝したい。
さて、今日の箇所は、伝道者パウロがテサロニケの教会の人たちに宛てた手紙の書き出しに当るが、まず始めに「恵みと平安とが、あなたがたにあるように。」という祝福の言葉があって、「わたしたちは祈りの時にあなたがたを覚え、あなたがた一同のことを、いつも神に感謝し、・・・」とある。この言葉は、牧師としての私の心の中にいつもある。おそらく、どの牧師にもこのような思いはあると思う。お一人ひとりに対する感謝は、神への感謝として捧げられることを覚えて頂きたい。また、それと同時に、主にあるお互いを神から合わされたものとして受けとめて頂きたく思う。またこのことは、私たちがイエス・キリストを伝えるものとして、神から望まれているということである。
パウロとテサロニケの人たちの出会いは、彼の二回目の伝道旅行の時で、使徒行伝17章にその時のことが記されている。テサロニケは、彼が訪ねたヨーロッパで最初の大都市であった。パウロからイエス・キリストの福音を聴いて、それを信じ受けいれた人たちは、まわりの根強い習慣や、この世の価値観に生きる人たちの、さまざまな妨害や迫害の中で、それに負けないで、乗り超えて生きた人たちである。それは、自分の小さな生きがいとか、慰めといった次元のことではない。その力はどこから来るのか。それはイエス・キリストにおいて上から臨むもので、感謝という言葉でしか表わし得ないものであった。「わたしたちは祈の時にあなたがたを覚え、あなたがた一同のことを、いつも神に感謝し、あなたがたの信仰の働きと、愛の労苦と、わたしたちの主イエス・キリストに対する望みの忍耐とを、わたしたちの父なる神のみまえに、絶えず思い起している。」(2,3)とある。「信仰」の働き、「愛」の労苦、「望み」の忍耐とは、死人の中から甦って、今は天におられ、再び来ると弟子たちに約束されたイエス・キリストを「待つようになった」(10)ということに関連する。新約聖書は「アァメン、主イエスよ、きたりませ。」(ヨハネ黙示録22:20)で終わっている。
「わたしたちは、神の御座の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。」(ガラテヤ5:5)とある。この言葉の意味は、私たちのいのちの時には終りがある。しかし、その終りは終りではなくて、神が私たちを待っていて下さる、迎えて下さるという輝かしい希望と慰めにみちているということである。私たちはこの世に生活しているが、同時に神の国に向って歩んでいる旅人である。しかし、このことを、私たちは本当に現実感をもって生きているだろうか。この世に生きているということは、必ずしも快適なことではない。生きていくために、それぞれが分からないところで忍耐してまわりとの調和を計り、あるいはまわりの人たちに気を遣いながら生きているのであるが、もう一つは、私たちには今のこの歩みが神のみ許につながっている故の忍耐というものがあって、それがあるから他のことは耐えていけるというふうにも言える。ある人が、自分はいつもクリスマスとかお正月の前には、何とも言えない淋しい孤独感のようなものにおそわれる。まわりが明るく晴れやかであればある程、それに反比例して働く自分の感情を意識する、ということを言われた。
しかし、これは人間的な感情の告白であって、その人の中には、イエス・キリストを求めてみよう、知ってみようという気持ちはない。これは多くの人の現実である。イザヤ書65章に「わたしはわたしを求めなかった者に問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に見いだされることを喜んだ。わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、『わたしはここにいる、わたしはここにいる』と。」(1)とある。西久保執事がメッセージの中で語られたように、神はいつもそれぞれに対して、御自身の許へ立ち帰ることを望んでおられ、私たちが自分の心と口で「あなたを信じます。」と告白することを待っておられる。
昨年もまわりの人が「病院は暮れの28日か29日で休みに入る。開くのは4日か5日だけど、その間に病気になっては困る、薬がなくなっては困る。」ということで、間際になってから、あちこちの病院に行くとかしている。しかし、私たちは自分がいつ終わりを迎えるのか、別の言い方をすれば、自分の終わりの時に向かっての緊張と予感というものを、病院が休みに入るということ以上にもつだろうか。これは決して暗い話題ではなくて、きわめて大切なことである。パウロはここで、テサロニケの教会の人たちに、「わたしたちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っている。なぜなら、わたしたちの福音があなたがたに伝えられたとき、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからである、」(4b)と語り、「そしてあなたがたは、多くの患難の中で、聖霊による喜びをもって御言をうけいれ、わたしたちと主とにならう者となり・・・」と記しているが、「わたしの時はあなたのみ手にあります。」(詩篇31:15)とあるように、まさに自分の時、自分の生き方が主によって護られ、導かれていくことを、新しい年の始めに当たって覚えたい。「新しい時の中に」という言葉を宣教題として掲げたが、新しい時の中の歩みの中で、私たちは主のものとしての自分の姿を描いていきたく思う。それは自分が納得して、自分が分かっていくことによって分かるのではなく、どのようにして主に従っていくかということである。パウロは他の手紙でも「わたしにならう者となってほしい。」(ピリピ3:17)と記しているが、それは、キリストを主としていく生活のことである。コリント人への第一の手紙 4:17に「彼(テモテ)は、キリスト・イエスにおけるわたしの生活のしかたを、わたしが至る所の教会で教えているとおりに、あなたがたに思い起させてくれるであろう。」と記している。私たちはどのようにキリストを主として、第一のこととして自分の生活を生きてきたか、また、いくかということを考えていきたく思う。
今までこの教会に何度か来て下さったT先生が、ヨハネ福音書2章のカナの婚宴のところからお話下さったことがある。主イエスも弟子たちとそこにおられ、母マリヤも同席していた婚宴の席で大切なぶどう酒がなくなってしまった。イエスは僕(しもべ)たちに、そこにあった六つの大きな石がめに、水をふちいっぱい入れるよう命じられた。僕たちには、いったいどんな意味があるのかを考え乍らの、きつい作業だったと思われる。ここで問題は、主イエスがいきなり、水を持ってきなさい。ぶどう酒に変えるからと云われたのではない。その人たちの労働を通して、ある意味では、水を運び続けてかめをいっぱいにするという作業の後に、全く思いがけないこととして、水がぶどう酒に変るという奇跡が起ったのである、と僕たちの労働と私たちの日常生活を重ねて説き明かされた。今は効率を考えて動くことが多いが、私たちの歩みは、自分では気付かないで、水がぶどう酒に変るという働きのための道のりを歩んでいたということでありたい。
私たちの人生というのは、いつどのようにつらいこと、思いがけないことがおきるか、実際は分からない。ただイエス・キリストを私の主としていく歩みの中で、私たちは水がぶどう酒に変えられるという、神の栄光をあらわす器として用いられるのである。神の栄光をあらわすのは、神に愛され、その選びに与っている私たちをおいて他にない。それは、私自身の認識とか納得を超えた大きな働きなのである。いつも「私」から抜けて、神のみ思いの中を、新しい時の中を歩んでいきたく思う。