私たちの教会の主の日の礼拝では、聖書の他に、連盟で出版された新生讃美歌の中から一曲と、讃美歌(日本基督教団出版局)・聖歌(日本福音連盟)を月毎に使用している。最初は各自で持参するのも大変かと思ったが、週報に次週使用する讃美歌・聖歌と曲番が予告されているのと、礼拝プログラムの全てがパワーポイントによって、正面のスクリーンに映し出されるので、今のところ大した不便はない。聖書と違って讃美の歌には、時代的に古いものもあれば、新しいものもある。いずれも誰かが作ったものであるが、共通しているのは、それが信仰と結びついているという点である。それぞれに作者の告白やメッセージが込められている。それは、普遍的でもあるが、同時に個別的でもある。リズムやテンポから言っても、勢いのいい曲もあれば静かな曲もある。歌う側からすれば、やさしいとかむつかしいということもあるが、歌いながら,歌詞の言葉に自分の気持ちが代弁されていると思うこともあれば、素直に歌えないということもある。ある方が、「この間、礼拝の中で『キリストにはかえられません』(聖歌521)を歌ったが、あの曲を歌いながら、自分の心がぽつんとひとりになるのを感じていた。「世の楽しみよ去れ、世のほまれよ行け」と歌っても、世の楽しみを楽しみたいとも思わないが、それは自分にとっては程遠い世界だ。「世のほまれよ行け」と言っても、自分にとっては、ほまれと言えるものは何もないということを思っていた。しかし、ふとこの作詞者は、世の富もほまれもある程度得てきて、年も重ね、今はキリストこそ一番だと言えるようになったのではないか、と思ったら、急に、まだ若いうちに信仰を与えられていることの幸せを覚えた。」と言われた。この曲の作詞者や作曲者の背景を調べる時間もなかったが、この方の感覚に嬉しさを覚えた。
このコロサイ人への手紙を書いたパウロという伝道者は、一つ前の、ピリピ人への手紙3章の中で、キリストを知る前の自分のことについて、「もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。」と言って、「わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、へブル人の中のへブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。」(5、6)と、胸を張って言うことの出来るエリートの中のエリートだった。その彼が、「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。」(8a)とさえ記している。「この方の中に知恵と知識のすべての宝が隠されている。」(コロサイ2:3、岩波・新約聖書訳)ことを、彼は信仰の目で見たのである。その事実に目が開かれたのである。
私たちはどれだけ、キリストの内に隠されている知恵、知識の宝を取り出し、活かしているか。ある人は、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたをえらんだのである。」(ヨハネ15:16)というみ言葉を、ある人は、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。」(イザヤ43:1)「わたしは、あなたがたの年老いるまで変わらず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。」(イザヤ46:4a)というみ言葉を語る。私たちは、聖書の中からどのみ言葉を自分に与えられた言葉として受け、人に語っているだろうか。
この27日(日)に私たちの教会で宣教の御奉仕をして下さる山内一郎先生(関西学院理事長)が、以前、「教会とは何かということについては、いろいろな答え方があるが、教会につながっている信徒の群れが、教会もその一部であるこの社会、世界の中で、生き生きと生きている、それが教会の標識である。」と言われたことがあった。「あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。」(Tテサロニケ5:24)とあるが、私たちの基本は既に与えられている。後はそこをどう生きていくか、キリストの内にある知恵・知識をどれだけ受けていくか、ということである。私たちは自分の存在の意味を、他との比較の中で、競争原理の中で考えるように育てられてきている。しかし、最も公正にこの私を見、評価されるのは、イエス・キリストが示して下さった神御自身である。そこに、自分を置いているかどうかを問うてみたいと思う。先日、ミレーの「夕べの祈り」という絵を観た。あれは、貧しい農夫が、今日も無事、仕事を終えたことを感謝する祈りの姿を描いたものである。これは、何気なく見過ごしてしまわれがちな一場面であるが、神の目から御覧になると、非常にいとおしい、また、非常に価値ある姿(「わたしの目にあなたは価高く、貴く」(イザヤ43:4―新共同訳)だと思われる。
さて、パウロはコロサイの人たちの秩序正しい生活と、キリストに対する信仰の姿に深い喜びを伝えると共に、「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。」(6)と、受けたものの大きさに心を向けさせ、励ましている。更に、キリストにあって歩く=生きる。生活するということはどういうことかを、四つの言葉で記している。1、キリストに根ざし、(「根ざし」の原語リゾオーは、樹木が土の中しっかりと根をおろし、しかもそれが常に変わらない状態にあることを意味する)2、キリストにあって建てられ(建物を建てる時には強固な土台の上で作業する。そのように、キリストという土台にしっかり結びついて)3、教えられたように、信仰が確立されて(こういうことがわざわざ語られるのは、それを妨げ、突き崩そうとする力が、現実に働いているということである。その力は必ずしも教会の外とは限らない。)4、あふれるばかり感謝しなさい(直訳は、感謝においてあふれなさい、である。感謝は主に心を向けることからくる。)
先週、亀山 毅(たけし)君のことを、お母さんの文子さんから頂いたお便りを紹介するかたちでお話したが、彼の内に一貫しているのは、主との関係である。希望の高校に入学し、これからという時に、難病と言われる腸の病にかかった。以来、さまざまな経験をされたと思うが、彼は自分をかわいそうだという思いに一切支配されず、今を神から与えられた時として受けとめ、日々を果敢(かかん)に生きておられる。12月には手術を受けられるが、主の御手の癒しを共に祈り求めたく思う