今日の箇所は、すでに年老いたモーセがイスラエルの民に向って、これまでの歩みと、ホレブ(シナイ山)で、神から頂いた戒めの言葉を、これからも忘れることがないようにという思いを込めて語っているところである。「申命記」という表題の「申」は、繰り返し述べるの意、「命」は、戒め・律法のことである。40年という長い荒野での生活の中では、世代交替もあった。今までは放浪の旅であったが、カナンに定住し、生活が安定してきた時に誰もが陥る誘惑を予測してのことである。さて、先程読んで頂いたところは、「イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求められることはなんであるか。ただこれだけである。」と言って、「すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え、また、わたしがきょうあなたに命じる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである。」とある。これだけのことを、「ただこれだけである。」と言っているのであるが、一番大切なことから語られていると考えるなら、まず先にくるのは、「あなたの神、主を恐れ」という言葉である。何故なら、主がどういうお方であるかということを知ることから、知らされたことから神の民としてのイスラエルの歴史は始まったし、また、神を知った者の歴史が始まるのである。
次に、「そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え、」とある。「つくす」とは、具体的にどういうことなのか。それは生活の中で、どのようなかたちをとるのか。辞書を開くと、「限界まで(すべてを)出し切る」「他のもののために惜しまずに働く」とある。元の意味は、「あなたのすべての心で」ということである。だとすると、「つくす」ということは、知ろうと努めることと言える。主は全てを見て、知っておられるのに、私たちが、どんな些細なことでも祈り求めることを喜ばれる。私たちは、神を、イエス・キリストを、更に知るための時間を、どこで楽しく取っているか。ある女性の方が朝、子どもも主人も送り出して、それぞれが帰って来るまでの間、充分時間があるようで、実際にはない。やるべきことをまず片付けて、さっぱりしてからと思うと、その間にいろんな用が入ってきて、すぐ夕方になってしまうということをお聞きした。私たちの日常生活というのは、ものごとが順序正しく、自分の出番を待っているというようなものではない。むしろ、処理しなければいけないことがらが、私たちの毎日の生活の中で、ひしめき合って、自分の優先順位を求めている。そうした中で、どのようにして聖書と向き合うのか、祈りと讃美の時を確保するのか。これには、やはり生活の中での工夫と決断が求められる。聖書の時代のような迫害はないとしても、生活の中で、キリスト者としての自分を形作っていくための努力や闘いが、私たちには必要である。それは、只自分のためだけでなく、イエス・キリストの栄光と、まわりの身近にいる人たちのためである。世の中では、生き残りをかけての、熾烈(しれつ)な、苦しい闘いが要求されている。そういう意味で聖書は、「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(詩46:10)ということを伝えている。「もしあなたがたが信じないならば、立つことはできない。」(イザヤ7:9)という言葉もある。大事なことは、どのような状態の自分も、神の支配の中にあることを思うことである。朝目を覚ました時、夜床につく時、通勤・通学の途中、家事・育児に追われている時、あるいは道を歩いている時でもいい、今の自分を、神の支配される時の中を生かされている者として覚えることが大切である。「見よ、イスラエルを守る者は、まどろむこともなく、眠ることもない。」(詩121:4)。神は、まどろむことなく、常に一人ひとりに目を留め、心を向けていて下さる。そのことを思って事に当たることが大切である。他に、Tテサロニケ5:9,10。
戒めのことについて言えば、毎日経験することの中で、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」(レビ19:18他)とあっても、そのようには出来ないという悩みはそれぞれに持っておられると思う。しかし、出来ないと思うことで悩むのでなくて、自分がどのように神に受けとめられ、愛されているか。愛のない、自分を神はどう扱っていて下さるか、それをまず考えたら、相手に対する対し方も、おのずと変わってくるのではないか。「わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にある・・・(Tコリント9:21)というパウロの言葉がある。私の状態や、周りの現実からではなく、まず、神との関係が先にあることを思うことが大切である。申命記6章には、「きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。」(6〜8)とある。このように詳しく書かれているということは、生活すべての面において、主の御支配を覚えるように、そのことが目につくように、という配慮である。どうしてこのようなことが求められるのか。今日のところで言えば、13節に「また、わたしがきょうあなたに命じる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである。」とある。「さいわい」とは、主を知る恵みのことであり、その関係の中に生かされてあるということである。勿論、神を知らないで、全くその関係を知らないところで人生を終える人も多い。しかし、問題はその事を知った者として、どう生きるかということである。知らされたということを特別なこととして考えていくということが、私たちにとって大切なことである。
「見よ、天と、もろもろの天の天、および地と、地にあるものとはみな、あなたの神、主のものである」(14節)という宣言の後に、「そうであるのに」という言葉がある。これは、新共同訳にも新改訳にも入っていない。しかし、文語訳には「然るに」という言葉で入っている。また、ドンボスコ訳では「それなのに、主は(それらをさしおいて)」となっている。「そうであるのに」は、前後の節をつないで、後に続く選びのことを強調し、且つわかりやすくするため入れられたものと思われる。
いずれにしてもこれは、私たちの考えるべき言葉と言える。「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか。人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。」(詩8:4)「人の子」はベン・アダムで、「顧みる」は、失われたものを訪ね、探すことを意味する。申命記を読むに当たって、私たちは改めて、自分の生活を、生活習慣を検討し、より容易に、主の御用に立っていく者となりたく思う。