イエスにある真理

17そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。 18彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、 19自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。 20しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。 21あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。 22すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、 23心の深みまで新たにされて、 24真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。
エペソ人への手紙 4:17-24

昨日、結婚式があり、今朝はこのように百合やバラの花が豪華に活けられている。私は挙式のたびに、司式をしていて思うことであるが、結婚を考えている人たちが多くいる中で、お互いを、ただ一人の生涯の伴侶として選び、それが結婚へと導かれていくことに、何か不思議な力、二人だけのことではないものを感じる。しかし、考えてみると、それぞれ最初の動機やきっかけは違うにせよ、私たちが今こうして共に礼拝に集まっているということに不思議なものを覚える。私たちには分からない神の摂理というものを思わされる。

エペソ人への手紙は、伝道者パウロがローマの獄中生活の中で書いた手紙の一つとされているが、背景になっているのは、使徒行伝18〜19章に記されている彼のエペソ訪問と、その後の3年に亘るエペソ滞在(同20:31)であることは言うまでもない。この手紙は、パウロの伝道によって福音に接し、信仰に与った人たちに宛ててかかれたものである。

今日の箇所は、「そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。」という言葉で始まっている。「おごそかに勧める」という言い方は、只、「威儀正しく」ということではなく、原文は「主に結ばれた者として、語りかつ証言する」という強い意味をもっている。「あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているようにあるいてはならない。」という勧告の言葉が続く。「あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、・・・またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。」(2:11〜12)とあるが、「異邦人」というのは、ユダヤ教徒が、律法をもたない、つまりその生活において神を知らない他国の人たちを、自分たちと区別して言った呼び名である。「歩く」というのは、毎日の生活を形容して言った言葉であるが、一体「むなしい心で歩く」とはどういうことか。

私たちが「むなしい」という感じを抱くのは、自分が一生懸命にやったことが、何の役にも立っていないとか、そのように評価されないとか、そういう時である。しかし、この場合の「むなしい心で」というのは、私たちが自分でむなしいと思ったり感じたりすることを言っているのではない。生きていく根本のこととして、神に対する「目当て」がないということである。しかし、神から離れていたら、神の言葉に、主イエスに心を開いて聴くということがなければ、むなしさの意味が分からないと言うことになる。

もう40年程前のことになるが、当時、青年で、その後献身して牧師となった伊集院さん(福岡在住)、浅野繁政さん(故人)、や今の山本執事と読んだ本の中に、キエルケゴールの「死に至る病」がある。その中に定義として、絶望している自分の状態に気がついていない状態という言葉があった。大体、むなしいとか、むなしくないという言葉は、どこに自分を置いているか、何に価値を置いているかというところから違ってくる。今、水曜日の集会で詩篇を学んでいるが、先週は36篇で、9節に「いのちの泉(=源)はあなたのもとにあり、われらはあなたの光によって光を見る。」という言葉がある。

人は、造られた方との関係の中でこそ生きるのであって、聖書の語るむなしさはその関係から離れた状態を示している。18節「彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ」とあるが、そこでは事柄を正しくつかんで行こう、知っていこうとすることがない。「知力が暗くなる」ことと、「その内なる無知と心の硬化」というのは、自ら求めるものを持たないという意味で密接につながっている。

私たちはそれぞれ自分の経験や好みに基づいてもの事を判断し、きめていく。自分できめていくのである。しかし、求めるべきものを持たない、知らないということは、目的や方向がないというか、定まっていないということである。19節「自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。」という言葉は、単に個人のことだけでなく、企業や国のこととしても言うことが出来る。もし企業がその周りの土地や、そこに住んでいる人たちの生活にどういう影響を及ぼすかを考えたら、公害の垂れ流しや、環境を損ねるようなことはしない。字句のことで「ほしいままに」というのは、「貪慾に」ということであり、「むさぼり」(Tテサロニケ2:5)とも訳される。また「不潔な行い」というのは、淫らなとか、欲望のままという意味である。「しかし、あなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった」(20)「学ぶ」ということは、知らなかったことを知っていくことであるが、それは人格的な生きた交わりを通してということである。

エペソの人たちが、神の言葉・キリストの福音を聞きながら、その福音から離れた状態にいる、あるいはそういう危険にさらされているということである。「あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。」(21)とある。十字架にかかられる直前、イエスは、ピラトの質問に答えるかたちで、「わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」。(ヨハネ18:37c)と言われた。ピラトは、その後、「真理とは何か」と問うたまま、そこを離れた。次に「あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て(22)・・・真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しい人を着るべきである。」(24)とある。この「新しき人」はイエス・キリストのことを指している。「心の深みまで新たにされて」(23)とは、文法的には受身の現在形で、「常に心の深みまで新たにされ続けなさい。」という意味である。

主イエスは、神の御旨、みこころを受けていくことに自分の全ての思いを注ぎ、そこから、御自分に従う人々を、新しいいのちにつないで下さった。「新しき人を着る」ということは、それにふさわしくされていくということである。私たちは、イエスにある真理、イエス・キリストの福音を受けた者として、その愛といましめからそれることなく、その中を生きる者でありたい。

2005年9月18日(日)主日礼拝宣教要旨

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