ここは、エペソの教会の人たちに対する伝道者パウロの、感謝(15,16)と、とりなしの祈り(17−19)であって、「あなたがたが知るに至るように」の「知るに至る」は、17,18,19節に記された三つの内容に直接結びついている。まず、17節に「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ」とある。新共同訳では、「栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし」と訳されているが、「知るに至る」の「知る」は、聖書の言葉を単に知識として知るということではない。
私たちは齢と共に、生きていく上でのさまざまな知識を身につけていくが、物事(ものごと)を正しく知るということは、考えるということと併せて、私たち人間に与えられた大切な機能である。生活のことで言えば、しばらく前から、地球の温暖化とその影響についての警告が発せられ、その対策が国際レベルで取り上げられるようになった。このところ、大変蒸し暑く、夜クーラーをかけていてもなかなか寝付かれない日が続いているが、高齢になられ、夜8時以降の電話には出ないと言っておられた先生が、夜なかなか眠れなくて、この頃は11時とか11時半でも起きているということを言われた。私たちが生活の中で求める快適さや便利さのために消費する電気、ガス、ガソリン等が放出する大量の二酸化炭素が、地球の温暖化を助長し、特にアジヤ、アフリカなどに旱魃(かんばつ)や作物の不作といった状況をもたらしている。
しばらく前の朝日新聞に「家庭の温暖化対策を急げ」という記事が載ったことがある。そこに「家庭で出来る温暖化対策は、電力消費を抑えること」とあった。いのちや生活環境の視点からも、地球を破壊や汚染から護ることは、きわめて聖書的な課題である。また、体のことに関して、つい最近の新聞の「ひと」の欄に、老化防止に挑む国際フリーラジカル学会の会長のことが紹介されていた。京都府立医科大教授で30年前から、老化の仕組みと対策を研究しているということで、記事の内容をほぼそのまま紹介すると、肉が古くなると変化する。その元凶が、フリーラジカルという物質。それが人の体内でも発生し、細胞を酸化、つまり老化させ、時に動脈硬化や心臓病を引き起こす。その元凶の発生を出来る限り抑えるには、たばこや紫外線などを避け、規則正しい生活や食事をすること。それでも酸化は起きる。その人は30年近く、ビタミンCやEなどの抗酸化物質をサプリメントで補い、さらに3種類ほどを服用しているとのこと。しかし、先日測った骨年齢は、実年齢より5歳も高い63歳だった。「睡眠をとって酒量を減らすと良いのだが、なかなかむつかしい」とあった。こうすればいいと知っていても、予防も出来ないような生活の中に私たちはいるのであるが、とにかく、ここで「知るに至る」という言葉の「知る」が指しているものは、現実には見出されないままになっている冨のことである。
先日、全国教役者会・総会が鹿児島で開かれ、その中で4つの分科会がもたれた。私はその中の「信仰の継承」というグループに参加したが、信仰というのは、親の仕事を子が受継ぐようなかたちで、あるいは「もの」を手渡すようなかたちで、継承されるものではない。結局は一人ひとりが、親から手渡された鍵で、本番のドアが開けられるかどうか、どこまでその中身を知っていくことが出来るかということになるが、もう一つの問題は、知ろうとすることに対して、それを妨げる力が働くということである。聖書はそれをサタンとか悪魔という言い方をしているが、「サタンも光の天使に擬装するのだから」(Uコリント11:14)とあるように、悪魔は、決してそれと分るような姿はとらない。むしろ、生まれながらの肉の思いが、神の霊を消していくのである。Tテサロニケ5:19に「御霊を消してはいけない。」とある。
教会の表玄関の左右に大きくもこもことした常緑樹が立っている。カイヅカと呼ばれるもともと柔らかくてやさしい感触の樹であるが、ある時、異質なものに触れたような痛みを感じた。見ると先の尖った固い茨(いばら)のような葉があちこちに出ていた。近所の園芸店の若主人に聞いたら、これがもとの樹の姿だということだった。カイヅカに限らず、私たちが普段目にする樹の殆んどは、新しく造られてきたものだということだった。放っておくともとの樹の性格が出てくる。しかもその方が強くて勢いがあるという説明を聞きながら人間のことを思った。何千年経っても、人そのものは変わらないし、人が内に持っている悪というか、容易に悪に取り籠(こ)められる弱さも変わらない。ただ、そのことに対して、私たちは創られた方の霊を頂いているから、また、特に神を知るように至らされていると、そのような罪の力に対しても警戒し、戦うことが出来るようになる。また、神から頂く霊の力によって、どうすればいいかが分るようになる。カトリックの司祭の方が「時間という宝」(くすのき出版)の中で、教会は人生の目的を、「神を知り、神を愛し、神に仕え、永遠の幸福に入ること」と、実に簡潔な言葉で伝えている。「神が、人間をどのような意向で造られたのか。まさにそこに、私たちの生きる目的があるのです。」と記している。私たちは、折角、神が立てて下さったイエス・キリストのことを知り、また、イエス・キリストによって神から送られてくる聖霊を受けて生きるものとされたのだから、また、「知るに至るもの」として覚えられているのだから、もっと深く神を知り、その愛といましめの中に、日常を生きる者となりたく思う。