わたしたちが神を愛したのではなく

7愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。 8愛さない者は、神を知らない。神は愛である。 9神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。 10わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。 11愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。
ヨハネの第一の手紙 4:7-11

今日は「父の日」とされているということと、また教会学校のテキストから考えて、この箇所を選んだ。この箇所は、聖書のもっとも中心的なメッセージを、ヨハネ3:16と並んで伝えている。それは、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって・・・」という、まさにそこから始まっているということである。考えてみると、最初に愛してくれる人がいるということは、人間の歴史をみても分かることである。大抵の親は、誕生した子どもの顔を見て喜び、その成長を願う。しかし、親であってもその時の生活環境や状況によって、子どもに対する対し方が変わってくる。人の親が動物の親と異なるのは、自然の原理から離れて、いろんな感情で子どもに対することも出てくるということである。

しばらく前に出版されたものであるが、グスタフ・フォスという人の書いた「日本の父へ」(新潮社)という本がある。「最近、家庭教育の一つの欠陥として、いわゆる父親不在の家庭の問題が大きくクローズアップされている。世の父親は、勤め、出張、残業、あるいはつきあいなどの理由で、たしかに家庭にいる時間が少なすぎる。理想的ではないが、現実の日本の社会においてやむを得ない事情があるかも知れない。」と、理解を示しながらも、「私としては、この“外での用事による不在”は、それほどの問題ではないと思う。むしろ、父親の家庭における“精神的な不在”が悪影響を及ぼしているのは否定できない事実である。」と語り、「レクリエーションやくつろぎを主(おも)に外で求めること、そして家にいるときには(疲れているからといって)、家庭にとけこまないで傍観者的な態度をとること――このような、父親の役割についての認識不足や無関心または無感動こそ、父親の“精神的な不在”の原因なのである。「非両親的」だと言わざるを得ない。」と記している。

つまり、このことに関しては、母親も無関係ではないということであるが、日本が高度成長期だった頃、会社のトップだった人が、息子とは妻を介してしか会話がなかった。母親は息子に「お父さんはあなたが小さい時、あなたをとても可愛がっていた。誰にも想像できないけど、あなたをおんぶして、海岸を歩いたりしていた。あなたをおんぶして、お姉さんと追っかけっこなどしていた」等、話すのだけど、息子は何の反応も示さないんですよ。と言っておられた。

もう一つは、70を過ぎた女性の方であるが、何かの時に、「父は亡くなる年まで、子どもたちの誕生日に、『誕生おめでとう』と電話をかけてくれていた。」ということを話された。父親というのは、心の中で今日は子どもの誕生日だということを思っても、電話をかけるところまではいかないものであるが、同時に、そのひとことの中に沢山の言葉が込められていることを思った。しかし、今の私たちには、気持ちを言葉で表わすことがあまりない。ある雑誌に、高度成長期と同じように、親の子どもに対する愛情が、子どもの欲しがるものにお金を出すというかたちになり、子どももそのことを愛情として受けとめるかたちになっているとあった。そういうこと以外には会話がないということは、考えなくてはいけない。

しかし、何かを語れと言われても、言葉というのはなかなか出てこない。私たちはもっと言葉を出す訓練が必要である。余分な言葉ではなくて、相手に自分の気持ちを伝える訓練である。子どもに、「あなたのことを大切に思っているよ。」とか、「愛しているよ。」とか。しかし、言うとしてもそれ位だし、そんなの照れ臭くて言えないとか、自然じゃないという答えも予測出来てしまう。

子どもの絵本に「どんなにきみがすきだかあててごらん」という題の本(評論社)がある。小さいうさぎが友だちのでかうさぎに、両腕を横にのばしたり、自分の背丈いっぱいと言っていたのが、相手の方が大きいものだから、しまいにはあのお月さままでと言うように、どんどん伸びて行く、お互いが自分の気持ちを伝え合っていくところが何ともよいのであるが、この本が書かれる背景には、やはりそういうものを求める人々の、あるいは作者の願いがあるように思う。

ヨハネの手紙は、キリスト者の群れ(教会)に宛てて書かれたものである。しかし、神から愛されている者として、お互いに愛し合いなさいということが、繰り返し書かれているということは、それ程に兄弟愛がなかったということである。そういう現実を背景として愛し合いなさいということが、聖書には 書かれているのである。そうした場合に、私たちに大切なのは祈るということである。「私には言葉もありません。しかし、子どものことを思っています。父のことを思っています。」というふうに祈ることである。以前にも話したことであるが、祈りがない時、祈れない時には、「主の祈り」を祈るとか、聖書を読むことも大切である。聖書を読んでいると祈りが出てくる。大切なことで、簡単に身につくということはあまりない。競技であれ、何であれ、観客は見ているだけであるが、人前で競技をする者、演じる者には、見えないところでの自分との厳しい闘い、訓練がある。そして、その労を惜しまない者が、結果として脚光を浴び、人々の称賛を受けることになるのである。人の生き方について、そのままでいいとか、ありのままでいいという言葉もある反面、イエス・キリストをこの世に送られた神が、私たちを一人一人として愛しておられるのだということを知ったら、そのことを伝えている聖書を読むとか、学んでいくということが大切である。

新聞の折り込みに「父の日」にはこんな贈り物をといったチラシが入っていた。近くのスーパーでは、「父の日」のプレゼントのおすすめとして、「缶ビール」6本がTセットで売られていた。結局「父の日」というより、自分に心が向けられるということが、父なる人には嬉しいのだと思う。テレビで、「父の日」だから、せめて父と一緒にいる時間をつくろうと思うと言っていた娘さんがいたが、一緒にいる時間と言っても、せいぜい、食事を共にする位のことのようであった。さて、私たちには神に愛されているということが、事実としてしっかりあるわけだから、臆さずにもっと自分の思っていることとかを言葉にして伝えたい。親子の関係を単なる人の営みという枠の中で思うのでなく、神の御支配が、そのまま人間の歴史に重なってあるように、創造主にして、「天上にあり地上にあって『父』と呼ばれているあらゆるものの源なる父」(エペソ3:15)のもとに、私たちの個々の家庭の営みもあることを覚えたい。ひとりひとりは、たとい父でなく、母でなくても、育ってくる世代を育て、護る者となって頂きたい。

9節に「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。」とある。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって・・・(10)」ということが基本であることをしっかり覚えたい。神はこの世を愛されて、そのしるしとして、イエス・キリストを送って下さったのであるから、私たちにはそのことをしっかり知る義務があるし、またそのことが、喜びの務めであるということも覚えたい。

先週は、鈴木重義先生をお招きして、召天者記念礼拝を守ったが、先生はメッセージの中で、生者と死者の主であるイエス・キリストは、陰府(よみ)においても宣教されると聖書にあるから、私たちには亡くなった肉親のためにも祈り続けることが大事だと言われた。そのことも併せて覚えたい。

2005年6月19日(日)主日礼拝宣教要旨

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