開かれた視野

6しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。 7そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。 8神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。 9苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ。 10主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう。
ヤコブの手紙 4:6−10

今日の教会学校の学びは、「貧しい人は幸いである」という主題になっていて(テキストはルカ6:20〜26)、「貧しい人も神は愛しておられる」という流れになっているが、現実には、同じ兄弟でも、大きくなって家庭をもつようになると、経済的なレベルが必ずしも同じということはない。そういうところから、兄弟の間でも、子どもの時の兄弟とは違ったものがお互いの間に生じてくる。箴言に「貧しいだけの理由で、兄弟も隣り人も離れる。」(14:20、19:7)という言葉があるが、貧しいということは、ある意味で、その人の弱点とも見られ、また相手をかまわなければいけないというものもあって、人から避けられる。これが一般の姿である。しかし、富んでいる人は、その人の努力でそれだけの富を得たのかも知れないが、そのことで神が、特に富んでいる人を賞賛されるということはない。彼が、その富は自分が自分の力で得たものだと考え、またその富によって心を閉ざし、他の人のことを思わなかったとしたら、神の国では全く省みられないものとなる。逆にもし貧しい人が、いくら貧しくても神との関係の中で、自分の生活や周りを感謝して生きていれば、神の国では富んだ人、また豊かな人とされるということが、聖書の私たちに伝えようとしていることである。

宣教題を「開かれた視野」としたのは、ものの考え方の基準がこの世にではなく、神の世界にあるということ、その基準に合わせていくという意味で、私たちには既に見るべき視野が開かれているということを受けとめて欲しいと思ったからである。そして、その「開かれた視野」のもとはどこにあるかというと、一ばんダイナミックには主イエスの復活、死人の中からの甦り、ということになる。主イエスが生前、弟子たちに語られたこと、また、その復活が意味していることは、私たちのいのちが、決して自分で分る、生きている間だけのことではなくて、死んだ後も永遠が続くということ、神の世界につながるいのちがあるということである。それは確かなことである。パウロはTコリント15:14で、「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。・・・もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。」と記している。しかし、パウロの言うことは、全ての人が聞いて理解出来ることではない。

それはさておいて、人生にはいろんなことがある。ここに「苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ。」(9)という、大変分りにくい言葉があるが、これは、今の私の喜びがいつまでも続く喜びではない。その喜びは、いつ悲しみに変わるか分らないし、いつ苦しみに変わるかも分らない。しかし、また今苦しんでいることが、やがて喜びになるということもある。懸命に勉強している人が、その時は苦しいかも知れないが、試験にパスするとか、誰かに認められた時、今までの苦しみが大きな喜びに変る。そのように、人生にはいろいろな状況がある。教会のN姉が、子どもを乳母車に乗せてスーパーに行った時のことを話してくれた。一階奥のお菓子を売っている店とエレベーターの間に、一寸腰を掛けられる空間があって、わりといろんな人が座っているが、その時、一人のおばあさんが子どもに向かって手を合わせていた。あれ、この人はどうしたのだろうと思ったら、「自分のような年寄りに笑いかけてくれた。ありがたい、ありがたい。」と言っていたということである。この話を聞いて、人生とは淋しいもののように思った。気がついてみると、私たちは案外人と挨拶も交わさないし、微笑みを交わすこともない。みんな物体のように、無表情に行き来している。そういう中で価値をもつのは、力であり、経済であり、その人の持っている何か社会的地位といったようなものである。しかし、そういう私たちの世界に、新しい価値観を、つまり神からの価値観を、主イエスは持ち込んで知らせて下さった、唯一の価値観は、私たちが自分の目指すものを知るということである。目指すものは、神に覚えられている者として、この世を生きていくということである。

神を知らないと、また、律法や戒めというものがないと、自分の心の状態や動きが照らされるということがないし、本当に自分を省みることも出来ない。「あなたはわたしのともしびをともし、わが神、主はわたしのやみを照らされます。」(詩篇18:29)とある。聖書の戒め・言葉は、あなたの心の動きはそれでいいのか、そのような心の状態で日々を過ごしていいのかということを、私たちに示してくれる。しかし私たちは、このような生き方が望ましいとか、このような生き方をした方がいいということを教えられても、必ずしもそのように生きることは出来ない。何故なら、私たち「生まれながらの人」(Tコリント2:14)は、誰でも利己主義というか、本能的に、いつも自分を中心に考えるものを内に持っているからである。他の人よりも少しでも抜きん出ていたいとか、いい立場に立っていたい、カッコよく振る舞いたいといったようないろんな思いは、いくらでも発生する。

今日のところに、「悪魔」(7)という言葉があるが、「生まれながらの人」の心に、悪い力がいろいろと働きかけてくるのである。そのことに対して、聖書ははっきりと答えを出している。それは、まず、「神に従いなさい」(7)ということである。それ以外に、私たちが、悪い力に対して勝つ方法はない。また、「神に近づきなさい」(8)とある。それは、神を求めるということである。私たちは、自分とか、自分の周りの人の価値観で人生が支配されるのではなく、神から教えられた価値観によって、神から愛されている者としての「開かれた視野」で人生を歩んでいきたく思う。

「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。」Tペテロ5:7、8

2005年4月24日(日)主日礼拝宣教要旨

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