信じて求めよ

7求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 8すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 9あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。 10魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。 11このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。 12だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。
マタイによる福音書 7:7−12

今、読んで頂いた中の特に7節の最初の言葉、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」は、新約聖書の中でも、よく知られた言葉である。聖書を知らない人、教会に来たことのない人でも、この言葉は知っているという人はいる。そして、この言葉で、例えば面接に行くとか、何かことに当る時に勇気づけられたという話はよく聞く。そう言えば、教会の掲示板で、最もよく見かけるのが、この言葉である。

ただ私たちがここを読む時、「求めよ」「捜せ」「たたけ」という言葉が強く入って、これを語られたイエスのお心や、本当に語ろうとしておられる方のことを思ってここを読む人は少ない。今日のところで大事なことは、これを語っておられるのがイエス・キリストであるということ。「求めよ、そうすれば、与えられる。・・・」という言葉も、神との関係において語られているということである。

今日の宣教題を「信じて求めよ」としたのは、まず信じ(受け)ないと、分らない事柄に属するからである。ある青年が、「自分は聖書の中で、トマスという人に一番自分を感じる。」と言われた。トマスは12弟子の一人(マタイ10:3、他)で、ヨハネの福音書には、主イエスの身に危険が迫っているのを察知した彼が、仲間の弟子たちに「わたしたちも行って、先生と一緒に死のうではないか。」(11:16)と言ったこと、また、主イエスが弟子たちに別れの時が近づいたことを告げられ「わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている。」と言われた時、彼は「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう。」(6)と尋ね、主イエスから「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。――」(7)という言葉を頂いた。

しかし、彼にとっても、十字架の衝撃は大きく、「わたしたちは主にお目にかかった。」と言う他の弟子たちに、「わたしはその手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。(ヨハネ20:25)と言った。しかし、8日ののち、主イエスが再び弟子たちに現われた時(この時はトマスも一緒にいた。)、彼に「あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言われた時、彼は「わが主、わが神よ。」と告白している。その彼に向かって、主イエスは、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである、」と言われた。先程の青年の話に戻ると、彼は、「私にはトマスのような衝撃が必要なのです。その時こそ、信じます。お許し下さい。と言いたいのです。」と言っていた。

しかし、その時はいつ訪れるのか。又、誰もがそういうかたちで信仰に入るのではないことを思う。正確には、信じたいという気持ちに重心をおき、信じることに決意して、歩み始めるのである。その信仰の(と言ってよい)歩みの中で、イエス・キリストの語られたことの意味、神とイエス・キリストと、信じて生きる自分との関係を認識するのである。つまり、事実が先にきているということである。弟子たちが主イエスの言葉に眼を開かれたのは、彼らが復活の主に出会ってからのことである。

主イエスは、世を去られる時、弟子たちに、父にお願いして、助け主を送って頂くと約束され(ヨハネ14:16)、その助け主、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また私が話しておいたことを、ことごとく、思い起させると語っておられる。(14:26)。そして、その働きは今も続いているのである。ある人が、只家で聖書を読んでいるのでなく、集会に出て、いろんな人の話すのを聞いていて、お互いの間に、主が関わっておられるのを感じた、と言われた。これも、これだと言って取り出して、人に示すことも分ってもらうこともできないことである。先程の青年は、自分の判断が絶対に正しいと思っているので、どうしてもそこを越えることが出来ない。しかし、人生には自分の分る範囲では、まさに絶体に分らないことが存在するということを、私たちは思わなくてはいけないし、またそのことは、伝えられなければ分らないことなのである。

そして、今日の箇所で主イエスは、はっきりと、求めよ、そうすればあなたたちに与えられる。捜せ、そうすればあなたたちは見出す。叩け、そうすればあなたたちは開けてもらえる。と語っておられるのである。ルカによる福音書11章では、「このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもには、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか。」と。天の父が下さるものを明らかに示して下さっている。聖霊とは、目には見えないが、イエス・キリストが天の父に願って送って下さったもので、私たちの助け主であり、とりなしてでもある。(ローマ8:26)しかも、それは、ひとりひとりに備えられているものであり、ひとりひとりが求めてこそ与えられるものである。おひとりお一人が、自分のためにだけではなく、周りの人のためにも、神のみ心を求めて、祈り、また伝えるものとなって頂きたい。

2005年4月17日(日)主日礼拝宣教要旨

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