今日のところは、ユダの手引きによって捕らえられたイエスが、大祭司カヤパのところから、ローマの総督ピラトのもとに連れてこられ、その面前で審問を受けるところである。28節に「それから人々は、イエスをカヤパのところから官邸につれて行った。時は夜明けであった。」とあるから、これは異常な事態であったと言える。また、群集が既にどよめくように多かったということも、情景として分る。しかも「彼らは、けがれを受けないで過越の食事ができるように、官邸にはいらなかった。」とある。時は丁度、「過越の祭り」をひかえていた。この祭りは、かっての民族のエジプト脱出を記念して春分の日に行われた。教えられたように一歳の雄の小羊を屠(ほふ)って、その血を入口の柱と鴨居に塗り、神のさばきから守られた。肉は「過越しの小羊」として食し、翌日から一週間、種の入っていないパンを食し(この期間、家の中から一切のパン種は除かれた。)、神の恵みと共にその出来事(出エジプト記12:1−27、23:15,16、34:18−21 他)に思いを向ける「過越の食事」は、特別な意味をもっていた。
ここでユダヤ人たちが官邸に入らなかったのは、そのことと関係している。「そこで、ピラトは彼らのところに出てきて言った、『あなたがたは、この人に対してどんな訴えを起すのか』。」(29) 本当なら「こんなに早朝から迷惑だ。用があるなら執務時間に来るように」と言って断ってもいいところだが、それが言えないような状況だったということである。ピラトの問いに対して、彼らは「もしこの人が悪事をはたらかなかったなら、あなたに引き渡すようなことはしなかったでしょう。」(30)と答えている。「悪事」という一言で、具体的には何も語っていない。
要するに、彼らの意図は、ピラトの権威(力)を利用して、イエスを殺すことにあった。ピラトは、そのような彼らの心の内を見抜いていた。「あなたがたは彼を引き取って、自分たちの律法でさばくがよい。」と言うが、彼らは「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません。」(31)と答えている。当時のユダヤは、歴史的にはローマの支配下にあって、ローマから直接委託されたこと以外、何の権限もなかった。しかし、統治されている中にも、権力の上下があり、力のある者、ない者がいた。そうした中で、律法を守ることに厳格であったパリサイ派の人たちが主に人々の生活や教育の指導に当っていた。イエスが神の国の到来を告げられたのは、そのような状況においてであった。
――そのやりとりの後、ピラトは再び官邸に入り、イエスを連れ出し、人々の前に立たせて尋ねるところが今日の箇所である。ピラトの「あなたは、ユダヤ人の王であるか」(33)という問いに対して、イエスは「あなたがそう言うのは、自分の考えからか。それともほかの人々が、わたしのことをあなたにそう言ったのか。」(34)と、問い返しておられる。これは、ピラトが自分をどう理解しているかを知るためになさった問いであるが、ピラトはそれに腹を立てたように、「わたしはユダヤ人なのか。あなたの同族や祭司長たちが、あなたをわたしに引き渡したのだ。あなたは、いったい、何をしたのか。」(35)と言っている。
それに対してイエスは、「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない。」(36)と答えておられる。ピラトは再度イエスに、「それでは、あなたは王なのだな」と、念を押すように尋ね、それに対しイエスは、「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける。」(37)と答えておられるが、ここが大きなポイントになる。「わたしは王である」という表現から思い出したのは、サンテクジュペリの「星の王子」の言葉である。
「星の王子」は、全ての人に知られているわけではないが、一つの星の王子だった。彼は王子としての知恵と権限をもって、「私」なる人に、大切なことは目には見えない。それは心で聞くものだと言っている。もう一つ、グリム童話集の中に、魔法使いによって動物に姿を変えられていた王子が、一人の王女の愛によって、人の姿の戻った、という話である。この場合は王女の愛が魔法を解いたことになるが、イエスが神の子であったということは、人のかたちをとられたという意味で、逆のことになる。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。」(ピリピ2:6)のである。そのイエスが、ここでピラトの問いに対して、「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」と言っておられる。そこでピラトは、イエスに「真理とは何か」と問うているが、ここで注目したいのは、彼はイエスの言葉を、本当には聞こうとしなかったという点である。そして、「わたしはこの人に何の罪も見出せない。従って、わたしはこの人を釈放する」という言い方でなく、「過越の時には、わたしがあなたがたのために、ひとりの人を許してやるのが、あなたがたのしきたりになっている。ついては、あなたがたは、このユダヤ人の王を許してもらいたいのか」と、彼らにおもねた言い方になっている。しかし、初めからイエスを死刑にしたいと思っている彼らは、「その人ではなく、バラバを」と叫ぶのである。
ここで私たちが考えたいことは、たとい真理だと言われていることであっても、自分から知りたいという気持がなければ、それは何の意味も持たないし、力にもならないということである。私たちは、既に、イエスが「わたしの国はこの世のものではない」と言われていることを知っている。また、イエスが、神の国のことを伝えるために、この世に来られたことを聞いている。ピラトに限らず、この世で、また自分に必要と思えないことに関しては、聞きたくも知りたくもないというのが、大抵の人である。しかし、たとい私たちが知りたくなくても、真理は存在する。ピラトは、「真理とは何か」と言っただけで、とにかくこの厄介な問題を早く処理したいという気持に動かされたようである。
ここで大切なことは、「だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける。」というイエスの言葉である。
私たちは、余程のことでないと必要を感じない真理を、しかし、示されている。イエスに心を開くことにおいて、あるいは受けることにおいて、真理に与っているのである。そのことの中にしっかりと自分を置いて、人のいのちというのは限りのあるものであり、また、人が自分で所有できるものではないこと。それは神のものであり、神は人の本心が自分のもとに帰ることを望んでおられるのだということを、もっと知らなくてはいけない。ルカによる福音書15章に、イエスの語られた放蕩息子のたとえが記されている。彼は全てを失って、にっちもさっちもいかなくなった時に、「本心に立ち返って」(17)、自分の現実を理解し、同時に父の存在(こと)を思い起こした。人は特別なことに遭遇することで、神のことを思うのでなくて、すべての人が神の御心を知り、神に帰ることを、神が求めておられることを、つねに思うことが必要である。ピラトはイエスの出会い、イエスが特別な人だということは感じ取った。しかし、イエスの語る言葉に、しっかりと向き合うことをしなかった。「真理とは何か」という問いは持ったが、そのままで終った。このピラトの気持ちや行動には、わたしたちにも共通するものがある。イエスは真理をあかしするためにこの世に来られた。今、私たちにとって最も大切なことは、イエス・キリストのあかしをしっかりと聴くことである。