今朝の宣教題を、新共同訳の「イエスが、『水がめに水を一杯入れなさい』と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした」からとって、「縁まで満たす」とした。そのほうが僕(召し使い)たちの動きが想像できると思ったからである。メッセージの内容は「信頼と希望」ということになる。これは、ガリラヤのカナという町での婚礼の場面である。読んでいて、まずイエスの母に対する理解しがたい言葉に躓(つまず)くが、母はその言葉に気を悪くもせず、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」と頼むわけである。
この婚礼は恐らくイエスの母方の親戚の家のことであり、母は裏方を仕切る権限を持っていたと思われるが、それにしても、他にいろいろな用が待っている中で、四、五斗も入る六つの水がめに水を汲んできて、縁までいっぱいにするということは大変な苦労であり、その前に、「何故、今」ということを思えば、自分自身のこととして考えても納得のいかないことである。しかし、その作業が終った時、イエスは彼らに、「さあ、くんで料理がしらのところに持って行きなさい」と言われ、料理がしらはぶどう酒になった水をなめて、大変に驚き感動する。しかし、このようになるということは誰も知らなかったわけで、全く考えられないことが起ったということである。
ひとりの姉妹が家族の者に、この奇蹟の物語を信じているかと聞かれて、すぐには答えられなかったそうである。そして、イエス・キリストは神の子であるからできないことはないはずだから、実際にそういうことはあったと思う。そして、ヨハネによる福音書14章11節に、「わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。」と書いてあると答えたそうである。
そしてこのカナの婚礼が、イエスのなさったさまざまのわざ、奇蹟の始めなのであるが、彼女は「奇蹟のこと、イエスのなさった不思議なわざよりも、中学生の時に聞いた『わたしは道であり、真理であり、命である』(ヨハネ14:6)というみ言葉をずーっと大切に信じています。イエスさまの前に出て、『本当でした』と言えるのがいつか分かりませんが、その時が楽しみなのです。」と言われた。しかし、実際には聖書の中に出てくる奇蹟の話だけに引っ掛かって、それ以上知ろうとしない人が多い。子どもの頃に、笹で作った舟を小川に流して遊んだことがあるが、笹の舟が途中何かに引っ掛かって、そこで止まったままになってしまうことがあった。しかし、ひょっとした風の動きでそのまま流れに乗って動き出した時は、思わず声を出して喜んだものである。その笹の舟が私の場合もあるし、誰かの場合もある。
しかし、私たちの生き方が、「わたしに躓かない者はさいわいである」(マタイ11:6)と言われたお言葉のように、自分ではわからなくても、神のための小さな風になっていくことを信じていきたいと思うのである。
イエス・キリストを信じる者は義とされる、信じたものはすでに神の子なのであるというみ言葉があるが、私たちの神の子としてのみ国を目指して歩む人生は、実はそこから始まるのである。
しかし大切な婚礼の最中に出すものがなくなるといったような事態に、私たちもどこかで出くわすことがあると思う。自分では心を配ったつもりなのに、どうにも仕様がないといったようなことが、人生のどこかで出てくると思う。そうした時に、どうしたらいいだろうか。しかし大切な婚礼の最中に出すものがなくなるといったような事態に、私たちもどこかで出くわすことがあると思う。自分では心を配ったつもりなのに、どうにも仕様がないといったようなことが、人生のどこかで出てくると思う。そうした時に、どうしたらいいだろうか。私たちは、困ったら困ったというところから、自由にものが考えられなくなってしまう。そのような時、「聖書を読みなさい」、「まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ6:33)「明日のことを思いわずらうな」(マタイ6:34)という言葉に接しても、しかしそれでは解決にならない。自分が困っているのは別のことなのだ、自分の仕事がうまくいかないということなのだ、あるいは自分の体が思わしくないということなのだ、と考えてしまう。こうした、祝福に満ちた奇蹟が、主に在る一人一人に、既に約束としてあるということを、私たちはここから学びたいのである。信頼する、委ねるということは、決して安易なことではない。それは只、成り行きにまかせるとか、なるようになるというようなことではない。むしろ、決断と勇気と努力を要することである。私たちは、主イエス・キリストを信じた者として日々を、主に対する信頼と希望をもって続けていくことが必要である。