今、Tペテロ1:13〜21まで読んで頂いたが、今日は特に13−15を中心に語らせて頂きたい。この手紙は弟子のペテロが、小アジア(今のトルコ)の各地に、「離散し寄留している」(1:1)キリスト者たちに書き送ったものである。直接的には、自分の国を離れて他国に住んでいる人たちのことであるが、ここでは国籍を天に持ち乍ら、この世に散らされ、「さまざまな試練」(1:6)の中で苦闘している人たちを力づけ、励ますために書かれたものである。
今日の箇所は、「それだから、心の腰に帯を締め」(13)という言葉で始まっている。「それだから」というのは、これまでのところで語られてきた「生ける望みをいだかせ」(3)「あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。」(4)「それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。」(9)と関係する大切なつなぎの言葉である。宣教題を、「心の腰に帯を締め」としたが、皆さんにはこの言葉に、きりっとした備えの姿勢を想像されるに違いない。当時のユダヤの人たちは、昔の日本人のように長い着物を着ていて、何か仕事をする時は、裾をからげて帯にはさんだようである。「腰に帯を締める」という表現はそういうところからきたものである。しかし、この「心の腰に・・」というのは、私たちの大切な中心を自分自身で守るということである。私たちは、何によって自分自身に価値を置くのだろうか。
先日テレビで、通しては見ていないが、アテネのオリンピックに出た選手たちが、次の目標を目指して励んでいる様子が放映されていた。浜口選手の、いつも大きな声で気合を入れるあのお父さんが、娘はこれから人類未踏の記録に挑戦するんだということを言っていた。私たちの場合、人より抜きん出るということが、目標とはされていないが、「あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって」ということが先にある。しかし、これは自然にはそのようになってはいかない。どんな子どもでも、育っていくためにはいろんなところをくぐらないで大きくなることは出来ない。どんなに恵まれていても、風邪や思わぬ事故、友だちとの関係や周りの大人との関係など、いろんなことに遭遇しながら大きくなっていくのである。そうした中で、何に一番価値を置くかということである。それは、自分自身で価値を置くのでなくて、ここに「むしろ、あなたがたを、召して下さった聖なるかたにならって」という言葉があるように、まず、神を知った、神のものとされたというところを毎日の生活の中心に置いていくということである。それが、「心の腰に帯を締め」ということになる。
次に「身を慎み」とある。原語の意味は、「酒によわない」「快楽に身をゆだねない」ということであるが、調子にのって、過ちを犯すことのないように気をつけることを言う。「身を慎む」ということは、いい意味で言えば、節度をわきまえるというになるが、若い人をはじめとして、どこか自由を束縛されているようにとる人もいる。しかし、そこで考える自由というのは、どうせ短い人生だから、少しでも自分の欲望のままに生きたいということになるが、問題は何によって自分自身の心を自由に出来るかということである。
先回、クリスマス前になると自分は却って淋しくなる、周りの雰囲気についていけないものがある、という人の話をしたが、その人の場合、やはり心の腰に締める帯のようなものが、無かったように思う。その人は、何となく仕合せとは言えないところに生きていたが、何か淋しい、何か満たされないという思いを、私たちは何によって満たすのだろうか。ここでは、「キリストの現れるときに与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。」(13)とある。この恵みというのは、神との関係をいっそう深く味わうということである。
神の恵みとは何か。旧約においては、自分にも他の人にも見えるかたちで考えられていた。つまり、物質的に豊かになるとか、力と地位を身につけていくような、神の祝福として、それがあった。しかし、キリストがこの世に来られたことによる恵み・祝福は、神との関係ということである。しかもそれは、備えられているけれども、自分で見つけるもの、引き出していくべきものである。しかもそれは、やがて見ることの出来る関係、分かることの出来る関係ということである。そのためには、「身を慎み」につながるのであるが、「従順な子どもとして、無知であった時代の欲情に従わず」ということである。
律法は人の心を守る見えない柵でもある。(ガラテヤ人への手紙でパウロは、相続人が子どもである間、父親に代わって、彼を監督する管理人・後見人にたとえて、律法の役割を語っている《4:1〜7》)。しかし、人は自分の思いでそれを越えたくなる。しかし、それを飛び越えなくても開く戸があるということ、それを知ることが大切である。欲望は社会的に言えば、道義よりも利益を主とする。例えば、世界的に言って、ヘロインなど薬物は人の体に悪いと分かっていても、高く売れるので、売る人は後を絶たない。またそれを買う人は、体に悪いと分かっていても、一時的な欲望を満たすものとして求めてしまう。そこに共通してあるのは、自分中心の思いである。
よく親睦と称していろんな企画がされ、会合が持たれるが、親睦というのは、付き合うことによって、あるいは時間を共有することによって出来るというものでは必ずしもない。その前に、日頃の仕事や周りの人に対する思いやりとか、そういう日頃の姿勢の積み重ねが大事のように思う。それに、本当に自分が神に愛されている者として生きていたら、あまりいろんなことで悩まなくなるのではないか。
亡くなった浅野牧師は、ホテルの勤務が長かったが、忘年会に出てもお酒は飲まなかった。しかし、それで自分が不利になるとか、不便を感じるということはなかった。むしろ別の面で、周りの人の心を満たしていたように思う。また逆に、人が自分と同じでないことに違和感を覚えるのもおかしい。私たちは、神から愛されている者として、絶えず自由になっていくことを学ぶことが必要である。しかし、そのコツは、自分の中に持つのでなく、神に愛されていることを信じること、またそれを願うところから与えられてくるものである。
今まで語ってきたことは、次の15節の言葉に要約される。「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。」「聖なる者となる」ということは、自分を区別された者として、いろんなことから自由になっていくということであるし、それはまた、心の腰に愛されている者としての帯を身につけているということである。