今朝はこうして皆さん方と、クリスマス礼拝を共に守れることをとても嬉しく思う。今日に備えて、会堂の飾りつけ等の準備がされてきた。教育館一階のホールには、初めての試みとして、子どもたちが紙粘土で作ったり、さまざまな型のカラフルなオーナメントが、壁一面に飾られている。これらを眺めていると、平和というか幸せな思いがする。しかしこうした中でも、世界のあちこちでは、争いや戦争が絶えずあり、爆弾が炸裂して、突然、家や家族を失う子どもたちがふえていることを思う。しばらく前にテレビで見た外国での話であるが、ある医師の子どもが、4〜5歳の時であったか、爆撃の最中に家族と生き別れになってしまった。10年近くたって、その医師がボランテイアで、ある地域の人たちの診療をしていた時、見るからに浮浪者のような少年がやって来た。彼は太って左足が不自由だった。しかし、診療が終って上着をはおり乍ら帰るその後姿に、医師はわが子ではないかと予感して、やがてそのことを突き止めたが、まるきり他人の中で生きてきた彼の話を、胸をえぐられる思いで聞き続けた。そして言った。「大変だったね。でもこれからは、お父さんの側にずっといなさい。」ある意味で、この少年の姿は、現実の私たちの姿であり、また少年の父の思いは神の思いではないか。
今日の箇所のヨハネ一章は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。」という文章で始まっている。「初めに言(ロゴス)があった。」という書き出しは、創世記の天地創造の場面を思い起こさせる。恐らくヨハネはイエス・キリストのことを記そうとする時、「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)神の存在を背景に語らざるを得なかったと思われる。ヨハネによると、「初めに」あったのは、「言」(ロゴス)であって、「創造」ではない。つまりこの「言」は、神が天と地を創造されるその前からすでにあったのである。「言は神と共にあった。」とある「共に」(プロス)は、只そこにあったというのでなく、「言」が神との深い関係の中であったことを意味している。
さて、先程読んで頂いた14節、「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。」とある。ヨハネは、イエス・キリストのことを、マタイやルカのように、系図や誕生からでなく、神の心、意志を表す「言」として記している。「ことばは肉(なる人)となって、われわれの間に幕屋を張った。」(岩波書店刊、ヨハネ文庫)のである。更に「わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」(14b,c)とある。この「めぐみとまこと」ということに関して、17節に「律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。」とある。
まず、イエス・キリストをとおして私たちに示された「めぐみ」とは、何か。「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。」(Tヨハネ4:9)とある。「生きるように」とは、私たちが神の中に生き、育っていくことが出来るようにということである。毎日の生活の中で経験するさまざまな出来事を、只自分の心だけで受けとめるのでなく、私を愛して下さっている神のお心を思い、その関係の中で受けとめていくということである。更にパウロは、ガラテヤ人への手紙4章の中で、律法の問題を扱いながら、「・・・このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。」(ガラテヤ4:6)と記している。父なる神が、御子イエス・キリストの十字架に至るその御生涯と復活において、私たちの罪を赦し、私たちを子として扱っていて下さるということである。これ程に法外なことが他にあるだろうか。何故「めぐみ」かというと、それは、私たちそれぞれが受けていくものだからである。「数えてみよ、主の恵み」という歌詞の賛美歌があるが、神を知らないということで、分らないでいる恵みもたくさんあるわけで、恵みが分って感謝が出来るということは、何と幸せなことであるか。春になると大地に緑が芽吹くように、あるいは太陽の光や暖かさの中に、寒さの次の季節の暗示を感じるように、私たちは信仰生活の中で、神の国を感じ、見ることがある。神の愛は、いつでも私たちがそのことを求めることが出来るように備えられているのである。イエス・キリストによって知らされる「まこと」とは、イエス・キリスト御自身が、御自分のいのちをもって私たちのために、神への道となって下さったということである。「わたしたちはその栄光を見た」(14)とあるが、これは、東の国の博士たちをベツレヘムに導いたあの星の光ではなくて、イエス・キリストの御生涯の中で「見た」と言えることなのである。「見た」と確信をもって言えること、そして、それを信じることができるということ、そしてまたイエス・キリストのことを聞いて信じた私たちが、実際には見てはいないけれども、確かにその栄光を見たと言えるということである。それは、神の御支配の不思議な内容である。
世の中のことも、世界のことも、すべて私たちがつかんで分かることではない。まして、神の知識は永遠に奥深いということを私たちは思わなくてはいけない。私たちは、確信を持ってか、持たないままでか、自分で身につけた知識や経験でものごとを判断しながら人生を歩んでいくが、自分が中心となっていくところに人間の罪(つみ)性というものが出てくるのである。イエス・キリストは成長され、神の国の福音を伝える働きをされた。更に御自身の働きを助ける聖霊の働きを、弟子たちのために、父なる神に願って十字架に掛かられた。多くの人はクリスマスを一つのお祭りとして喜び楽しんでいる。曽我ひとみさんも、夫のジェンキンスさんが自由の身となって、曽我さんの故郷である佐渡で親子揃っての生活が始まったということが、テレビで放映されていた。「(北朝鮮で生まれ育った)二人の娘はクリスマスのことを知らないので、何かプレゼントをして喜ばせようと思う。」と言っていた。一般にクリスマスとは、贈物をするという性格のお祭りになっている。しかし私たちは、神を知る喜び、「キリストの無尽蔵の富」(エペソ3:8)を宣べ伝える者としての喜びと力を与えられている。この贈物を、新しい年にももっと豊かに求めて、身近な人に知らせる者となりたい。クリスマスの本来の意味は、神が私たちそれぞれを御自身のもとへ迎えるための備えとして、御子イエス・キリストを送って下さったことにある。そのことを改めて心に覚え、感謝したい。