もう先々週のことになるが、連盟総会の二日目の夕食を早々に済ませた私たちは、三島駅で、名古屋に帰る列車を待っていた。時間のせいかホームはひっそりとしていたが、私たちの立っていた一号車(禁煙車輌)の乗降位置に、一人の外国人女性が続いて並ばれた。何となく家内が微笑みかけたら、いきなり「クリスチャンの方ですか。」と聞かれ、「そうです。」と答えると、「自分にスマイルする人はいないからそう思った。日本にはクリスチャンが少ないから、こうして出会えるのは嬉しい。」と言われた。列車の中で名刺の交換をしたが、彼女は「ハーベスト・タイム(福音テレビ放送―日本全国14局、米国4局で週一回放映)で、中川健一先生のアシスタントをしておられるということだった。また、お母さんは日本人で、お父さんがスイス人の宣教師であること、夫はイギリス人で宣教師として、今一緒に仕事をしているということだった。これが私の家族だと言って写真を見せてくれたが、とても五人の子どものお母さんとは思えない、美しくて若々しい感じの人だった。家内が「日本では、教会の奉仕など、家族のこともあっていろいろ大変だけど、そのことについてどう思うか。」と尋ねたら「日本人は自分にも相手に対しても律法的になってしまうから、楽しくなくなる。やはり神さまをいつも喜んでいることが大切だ。私は子どもと一緒に買い物に行く時でも、いちいち感謝の言葉を子どもに出している。神様を知っていることは楽しい、嬉しいということを言っている。」と言われた。
またもう一つ、関連して思い出したのは、このたびの連盟総会で、総会牧師として立てられたリデイイア・ハンキンス先生(現在、西南学院教会協力牧師、西南学院大学宗教主事)が、メッセージの最初のところで、「私がここに立たされているということは、神の前には国籍も男も女もないということの証しだと思う。」と語られた言葉が非常に新鮮に響いた。
さて、今日の箇所は「愛する者たちよ。わたしたちは互に愛しあおうではないか。」で始まっている。しかし、ここで語られているのは、誰もが経験として知っている愛のかたちではなく、「神を知っている」(7)ことに関係する。「愛する者たちよ」という呼びかけの言葉は、2章7節から4章にかけて何度も繰り返される。原語(アガペートイ)は、「愛されている者たち」であるが、著者ヨハネの思いだけでなく、「神に愛されている者たちよ」とも読むことが出来る。「わたしたちは互に愛しあおうではないか」の後に、原文では「なぜなら」(ホテイ)「愛は神から出たものなのである。」と、愛し合うことの理由とその愛の源が神にあることを示している。
9節に、「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。」とある。「生きるようにして下さった」と言うのは、神のいのちにあづかって生きる道が、イエス・キリストによって備えられたということである。ヨハネは主イエスが、父に願って送ると約束された真理の御霊=聖霊について、「この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。」(ヨハネ14:17)と記している。つまり、一般に人生と形容される生活の中では、何らかのきっかけがなければ知ることも、分かることも出来ない性質・内容のものであるということである。Uコリント2:14に「生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは、彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。」とある。ヨハネはそうした状況の中に置かれている信徒たちに、「わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は神から出たものなのである。」と語るのである。「すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている。」という言葉は、当時のごく少数のキリストを信じる群れ、集団の中にあっても、それぞれに育った環境の違い、性格の違い、教養の違い等によって、かならずしも一つになれないものが常にあったことを示している。
最近、聖文舎(教会の近くにあるキリスト教書店)で、新教出版社から出た、大判でハードカバーの「耳をすまして」――ほんとうにたいせつなこと――と副題のついた本が目に止まった。英国で最も人気のある修道女シスター・ウエンデイーがこどもたちに贈るはじめての絵本という紹介があって、内容は、人生の中の大切な12のテーマを掲げ、それに沿って選ばれた絵画を鑑賞しながら言葉を読むというかたちになっている。その11頁に、「神さま、わたしが、あなたのように愛をもってほかの人を受け入れることができるように、お導きください。ほかの人をそのまま受け入れることができますように。そして、どのような人に見えても、けっして、その人にひどいことをしたり親切にしなかったりすることのないように、助けてください。」とあったが、このような祈り、言葉は時代を超えて、人類に、世界に必要なことである。10節に、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」とある。「ここに愛がある」のこの愛は、この世の親兄弟の愛とは違う、仮にたとえで語られることはあっても、それとは全く別の、神からの愛のことである。それは私たちに、ただ神に向って生きることを望まれる愛である。どこかにではなく、「ここに―、私たちの立ち帰りを待たれる神の―愛がある。この愛のうちに日々生きることを望まれているのである。
先程、愛は神から出たものである。この愛は神からの愛のことであると言ったが、神が創造主で、人を造られたのであれば、人の心に愛のやさしさ、暖かさ、忍耐、希望等をお与えになったということも言える。しかし、人は同時に自分と違う相手を傷つけ、殺しもする存在であることを思う時、私たちは神の怒り、さばきの時も思わねばならない。イエス・キリストがこの世の救主として来られたこと、十字架のあがないの事実に、私たちは改めて目を向けなければと思う。もう一度、10節のみ言葉を述べたく思う。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」