ヤコブの手紙の特に3章は、私たちには大変分りやすい、容易に実感の出来る言葉が記されているが、13節の言葉は3章全体を通じての要になっていると思う。著者は「あなたがたのうちで、知恵があり物わかりのよい人は、だれであるか。」と問いかけている。これは、私たち一人一人に向けられたこととして、まず覚えたい。何故なら、私たちは既にイエス・キリストからの聖霊の働きによって、神の言葉に耳を傾け、それを理解する力を与えられているからである。次に、「その人は、知恵にかなう柔和な行いをしていることを、よい生活によって示すがよい。」とある。誰に向かってか。私たちは、周りの人にというふうに思うが、まずは主なる神に対してということである。神は、この私のすべてをご存知である。詩篇139篇に、「主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し(外にいる時も、家に憩う時も常に見ておられ)、わがもろもろの道をことごとく知っておられます。わたしの舌に一言もないのに、(言葉が口に上る前に)、主よ、あなたはことごとくそれを知られます。」とある。新約聖書(ヘブル人への手紙4:13)にも、「神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは、言い開きをしなくはならない」とある。大事なことは、私たちには神からの問いかけ、示しに対して、応答の行為が求められているということである。そして、私たちが主に信頼して応えて行く時に、私たちの生活は主に導かれていくのである。勿論、自分の努力もいるが、何よりも天において、私たちのことは受けとめられているのである。
ヤコブはここで、この世の知恵、誰もが生まれながらに持っているものに対して、「しかし上からの知恵は、・・・」(17)と語る。それは「上から」のものである。私たちキリスト者は、あらゆる必要に際して、天の父に心を向ける。わたしたちの国籍は天にあり(ピリピ3:20a)、その宝を天に蓄える(マタイ6:19-21)。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられた。(Tコリント1:30)、キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。(コロサイ2:3)と書かれている。
さて、ヤコブが「上からの知恵」の第一に挙げたのは「清さ」である。これは純粋とか混じりけのないことを言う。思いや行為(行動)の純粋さは、神に対する畏れによってのみ成立する。(マタイ6:1−18)次に、それは「平和」に充ちている。「キリストはわたしたちの平和であって」(エペソ2:14)とあり、「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」(コロサイ3:15)とある。私たちにとって何よりも大きな慰めは、キリストによる神との和解(Uコリント5:18−19、コロサイ1:19−20)平和が与えられていることを知っていることである。次に、それは「寛容」とある。寛容とは、相手を受けとめること、思いやることを言う。次に「温順」とある。あまり使われない言葉である。原語の意味から言うと「従順」でも良いが、あえて「温順」と訳した意図を考えると、「ねばならない」という感情でなく、柔らかい、穏やかな心で動く、従うということになる。次に、それは「あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず(分け隔てせず)、偽りがない(見せかけがない)。」とある。上からの知恵に生かされて生きるとき、私たちは人をありのままに受けとめ、しかも暖かく、主の言葉で生きていることをあらわす者となる。
「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、誇り高ぶってはならない。」(14)とある。「もし」とあるのは、私たちのうちに、既にそれがあるということである。私たちは、何が主によって尊いとされるのかを、しっかりと弁(わきま)えておかなければならない。また、「真理にそむいて偽ってはならない。」とある。私たちは人として生きる道を示されていても、それに心を従わせたくないものがあるということも、この言葉は指摘している。それはまた、神から与えられている聖霊の働きに心を閉じてはいけない、ということである。しかし、そうさせないように働く力がある。それは上からのものではなく、むしろ、地にあるものとして存在する感情であることを、私たちは認めねばならない。そして、それが人と人との間に、ねたみや党派心をまき起こし、混乱と忌むべき(神に祝されない)行為へと追いやるのである。そこから自由にされていくのは、ただ、「上からの知恵」によるが、このことは、すべて神に愛されているという事実、光によって示されていることである。
「義の実は、平和を造り出す人たちによって、平和のうちにまかれるものである。」とある。ここに私たちの目指す生活と祈りがある。この「義の実」は、私たちが自覚するというより、むしろ、私の知らないかたちで、天において形づくられていくものである。
3章の特に前半には、年代に関係なく、分り易い例が挙げられている。目や耳や口は、私たちが生きていく上で大切な体の器官であるが、特に口は物を食べるだけでなく、言葉を発する器官として、詳しく描写されている。2節に「わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。」とある。舌によって語られる言葉は、その人自身の思いや感情・意志を表わすものである。エペソ人への手紙4:29に、「悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つようにしなさい。」とある。私たちは、自分の口ではなく、地の人としての心にくつわをかけることが必要なのである。
更に9節に、「わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。同じ口から、さんびとのろいとが出てくる。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない。」と書かれている。「わたしの兄弟たちよ」という表現で、大切な仲間だからという、ヤコブの思いが伝わってくる。しかし、このことは、家庭という小さな単位の中でも、あるいは、一人一人の心の中にも生じる。ある人が、「朝目が覚めると、まずそのことから感謝の思いがあふれてくるのに、時間がたってくると、接する家族によって気持が苛(いら)立ったり、どす黒くなってしまう。泉が甘い水と苦い水とを同じ穴から噴出すことがあろうか、とあるのに、私はいつもそうなんです。」と語っておられたのを思い出す。
私たちは既に、キリストのものとしての光の中に置かれている。光の中に置かれているということ、知られているということは、決して窮屈なことではなく、本当は、この上なく嬉しいこと、安堵(あんど)感に結びつくことである。何よりも、キリストの「光」を意識出来るということは、最も大きな恵みと言える。私たちはもっと、光の中に置かれているものであることを自覚して生きることが大切である。