祝福はただ一つ

1イサクは年老い、目がかすんで見えなくなった時、長子エサウを呼んで言った、「子よ」。彼は答えて言った、「ここにおります」。 2イサクは言った。「わたしは年老いて、いつ死ぬかも知れない。 3それであなたの武器、弓矢をもって野に出かけ、わたしのために、しかの肉をとってきて、 4わたしの好きなおいしい食べ物を作り、持ってきて食べさせよ。わたしは死ぬ前にあなたを祝福しよう」。
創世記 27:1-4

8月6日は広島に原子爆弾が投下された日で、その時刻に合わせての、平和公園での記念式典がTVで放映された。その中で広島市長の秋葉さんが、広島に原爆が投下されて59年になるが、核兵器はなくならず、世界各地では、暴力と報復の連鎖が続いている。・・・私たちは今こそ、この一年の間に新たな希望の種をまき、未来に向かう流れを創らなくてはなりません、と訴えておられた。(この時のメッセージは「広島市長平和宣言」として当日の夕刊「朝日」に掲載されている)平和記念公園の慰霊塔の前には多くの人々で埋められていたが、前列には小泉首相はじめ何人かの閣僚たちが、カンカン照りの日差しの下、黒のスーツに黒のネクタイを締め、苦しい表情で座っているのが大きく写し出されていた。59年という歳月が流れ、前列に並ぶ代表者の顔ぶれは変るが、被爆した人たちの心と体に受けた苦しみは、今なお癒されることなく続いていることを思った。

創世記の始めに天と地を創られた神は、人と共にすべての動植物を創られ、それらを見て良しとされ、祝福して「生めよ、ふえよ、・・・」と言われたことが記されている。以来旧約において祝福という言葉は、目に見えるかたちで表わされてきたように思われる。イサクがエサウではなく、ヤコブに与えてしまった長子としての祝福も、別の言葉で言えば財産に当るものだった。今日の宣教題は、長子としての特権・祝福を弟ヤコブに取られた兄のエサウが、父イサクに「あなたの祝福はただ一つだけですか」と言ったところから、書かれてはいないイサクの答えを掲げたものである。「祝福」という言葉は(神からの)贈り物という意味をもっている。従って年老いたイサクがここで息子に譲り渡そうとしている祝福は、今まで自分を護り支えて下さった神御自身のことと共に、自分の生涯の中で得た財産が、更に増していくことをも意味していた。

日本にもかつて「家督相続」という制度があった。その場合の「家督」というのは、@代々の家長・戸主(現在の世帯主)に受け継がれていく権利・義務。Aその家の跡をつぐ人・長男、またその地位を意味した。イサクがアブラハムから受け継いだ祝福、そして、ここでイサクを通しての子どもへの祝福は一つであり、ひとりのためのものであった。この時代は、家や財産を受け継ぐというより、祝福を受け継ぐという意味で、「長子の特権」(創世記25:31−34、27:36)ということが大切に考えられていた。しかし、神からの祝福を受け継ぐという、その価値は大変分りにくいものであった。順序から言えば、当然受け継ぐことになる兄のエサウにもそれがよく分かっていなかったように思われる。

私たちには、例えば入学試験とか入社試験のように、予め分っていて、そのために準備して掴むチャンスと、自分でも全く予期しないかたちで訪れる、あるいは訪れているチャンスというのがある。このヤコブとエサウの場合がそうである。ある日、ヤコブはあつものを煮ていた。そこへおなかをすかせたエサウがやってきて、それを欲しいと言った。それは正に「ある日」の、そして全く何でもない日常の一場面である。しかし、そこでヤコブは、「まずあなたの長子の特権をわたしに売りなさい」と言うのである。内容から言うと、そのように軽々しく口にすることではないから、これは長子でないヤコブが、得ることの出来ない特権に対する羨ましさも込めて言った軽口だったと思える。しかし、それに対してエサウは、「わたしは死にそうだ。長子の特権などわたしに何になろう」と、彼にとっての意味まで、不用意にも出してしまう。そして、それがヤコブにとっての思いがけないチャンスになった。ヤコブは「まずわたしに誓いなさい」とエサウの中に踏み込み、誓わせて、長子の特権を手に入れるわけである。これは、全くたまたまこうなったわけであるが、しかしそれには、ヤコブが兄のエサウよりも長子の特権を大切なものとして考えていたということである。逆にエサウの方は、それを本当にたいせつなものとして考えていなかった。だからこの場合、自分の空腹をみたすことが大切であって、「長子の特権」などわたしに何になろう、ということになった。しかし、このことは、また、私たちの日常生活の中で何度も試みられるというか、実際問題として迫られてくる事柄でもある。

先程読んでいただいた後の5節以降には、ヤコブが、「長子の特権」である「祝福」を得ようとして非常に大胆な策を講じ、父イサクを欺く場面が続く。母リベカは、「もしそのことでのろいを受けることがあったら、自分がそのそろいをうける」とまで言って、ヤコブを説得し行動に移させる。事はそのように運び、ヤコブはその「祝福」を受けた。私たちはここを読む時、二人がイサクを欺いたということに心が囚われるが、しかし、そうまでして「祝福」を得ようとしたということを、私たちは心に留めなければならない。神の恵み・祝福は、私たちに確かに豊かに与えられているが、それは、実際に神のものとして歩むことの中で分ってくるものなのである。

エサウは、自分が受けるはずの「祝福」を、ヤコブに奪われたことを知って、「父よ、あなたの祝福はただ一つだけですか。父よ、わたしを、わたしをも祝福してください。」と声をあげて泣くが、この場合の祝福は、それが全てであるという意味で「ただ一つ」のものである。私たちへの言葉で言えば、イエス・キリストによって神の子とされる祝福はただ一つであって、しかもそれが全ての祝福につながることを意味する。従って、この一つの祝福を離れて、私たちに祝福はあり得ないということになる。

この物語から、親子の問題にふれておくと、はじめの方に「イサクはエサウを愛し、リベカはヤコブを愛した」(25:27,28)とある。こういう話は身近かなところでもよく聞く。現実に二人兄弟(姉妹)で、双方がそれぞれ片方の親にそっくりで、どういうわけか親は自分に似た方を愛しているという例になるが、これは、双方の子どもに、彼らが大人になってからもしこりを残すことになる。親の性格、子どもの性格もあるが、家庭の中ではそういう自然体はよくない。私たちが自分の気持という自然体と向き合うことは大切なことである。お互いに相手の違いを認め、受け容れていくことが大切である。受け容れられていないということは、そのまま自分は愛されていないという思いにつながるもので、そういう意味では親は無意識の罪を犯さないように、つまり神からの与りものとして、子どもに対することが必要である。そして、私たちが委ねられている福音を、しっかりと受けとめて、一人一人、他の人と共に、神の国に生きる「案内人」となることが必要である。

イサクの愛、リベカの愛は、人の子としての愛で、エサウとヤコブを傷つけ、苦しみを味わう年月へと押しやった。しかし、神はそれぞれを見守っていて下さったのである。どのような境遇の中にあっても、神が自分に目をとめていて下さることを――イエス・キリストの十字架は、神の私たちへの変ることのない愛を証しするものである――いつも心に覚えておきたく思う。私たちは、それぞれイエス・キリストによって「祝福」を頂き、また他の人への「祝福」を願い求め、祈る者とされている。そして、頂く基本の「祝福はただ一つ」である。このことを知ることが、私たちのキリスト者としての生活の大切な軸となることを覚えてほしい。

2004年8月8日(日)主日礼拝宣教要旨

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