宣教題を「主の喜び、私たちの喜び」とした。私たちが主にお会いすること、主に求め続けていくことが、主のお喜びになることであり、その主を知って与えられる喜び、それが私たちの喜びである、ということである。「主の喜び、私たちの喜び」を記した言葉は、聖書の中に数多く見られる。主イエスは、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。・・・わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。」(ヨハネ15:9−11)と語られた。また、「主を喜ぶことはあなたがたの力です」(ネヘミヤ8:10)「わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。」(ローマ5:11)「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。(ヘブル11:13)等々。
今読んだ7節には、「あなたがわたしの心にお与えになった喜びは、穀物とぶどう酒の豊かな時の喜びにまさるものでした」とある。今日は召天者記念礼拝ということで、先に召された方たち45名の名前を、先程読み上げさせて頂いた。何年前に召された方であっても、その思い出は決して色褪(あ)せない。ついこの間会ったように笑顔や姿、交わした言葉などを思い出す。不思議な経験である。
忘れられない言葉の一つに、病床で信仰を告白された一人の姉妹が、臨終を前にし、子どもたちに「先に行って、天国の様子を話してあげるね。」と言われた言葉がある。私たちは神の御支配の中にありながら、同時に圧倒的無知の中にいる。私たちは、聖書の語ることについて何か知っているようであるが、まだ知らないこと、分かっていないことが多くある。それは、人の知恵では完全に説明することが出来ない。例えば、携帯電話のボタン一つで遠くにいる人と話が出来たり、簡単な操作で、見たいTV番組を即座に見ることが出来るという「不思議」があるが、聖書にはもっともっと、私たちには分からないことがある。主イエスが、生前の姿でしばしば弟子たちの前に御自身を現されたこととか、(ヨハネ20:19−23,26−29,21)弟子たちが焼いた魚の一きれをさしあげると主イエスはそれを取って、みんなの前で食べられたこと(ルカ24:42−43)等々。これらは、その時代、主イエスと共にいた人だけに、一度だけ示された神の奥義である。そして、神が活きて働いておられるという「事実」は、今も伝え続けられている。五木という作家が数日前のTVで、これはあくまでも自分の創作として受けとめてほしいということであったが、人間は生物の源である海から生まれて、元気がなくなる(死ぬ)と海に帰っていく。そういう循環を思うと元気が出てくるというようなことを話しておられたが、私たちは聖書が語っているように、人は神によって創られたものであり(創世記1:27、2:7)、また人は必ず創られた方の前に出なければならない存在であることを思わなければならない。人は単なる無機物的な存在ではない。この世に生を受け、周りを楽しませ、力づける存在でもあるが、同時に残酷なことを平気で言ったりしたりするものである。また表面ではともかく心の内に憎しみやねたみ、場合によっては殺意を抱いたりする存在でもある。今だに戦争や犯罪が絶えないことを考えると、実にそのことを思わされる。しかし、人の犯した罪は最終的には必ず神の前でさばきを受けることになるのだということを私たちは知らなくてはならない。
今日の箇所は、大変な状況の中で神に信頼し、神に求め、神から与えられる喜び、平安を歌った詩である。著者は、自分のことを語ると同時に周りの人たちにも聞かせるという、信仰告白と宣教が一つになった詩である。
一節に「わたしの義を助け守られる神よ」とある。「わたしの義」というのは、神を畏れ敬う者、あなたの子としてのわたしの義という意である。「わたしが呼ばわる時、お答えください」とある。こう言えるのは、次のことを既に経験として知っているからである。「あなたはわたしが悩んでいた時、わたしをくつろがせてくださいました。」。「悩む」(ツアール)は、狭い:密封の意。つまり身動きのとれない状態を言う。しばらく同じ状態でいると、体はこわばって自由がきかなくなる。人の心や体は何によって硬直するのか。恐れや不安によることもある。悲しみや憎しみによることもある。逆に「くつろぐ」(ラハブ)は、広い場所を与える、道をひらく、ゆるめる等の意味を持つ。岩波版は「苦しみから、あなたは(かつて)私を解き放って下さった」(旧約聖書翻訳委員会訳)となっている。著者は、ここで再び主の助けを求めている。次に「人の子らよ、いつまでわたしの誉をはずかしめるのか。・・・」とある。「わたしの誉」というのは、私が負っている神の栄光のことである。次に「あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない。」(4)とある。怒りにもいろいろあるが、この言葉は、怒ることで罪を犯すことがあることを示している。エペソ人への手紙には「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。」(4:26)とあり、ヤコブの手紙には「人の怒りは神の義を全うするものではないからである。」(1:20)と記されている。次に「義のいけにえをささげて主に寄り頼みなさい。」(5)とある。「義のいけにえをささげて」の意味は、「神との正しい関係に立ち帰って」ということである。最後に、自分自身のこととして、「わたしは安らかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです。」(8)とあるが、知られている、理解されているということにまさる喜びはない。
今も話題になっている韓国映画「冬のソナタ」の中に、主人公のミニヨンが、ユジンに「結婚したらどんな家に住みたいですか」と尋ね、それに対してユジンが、「形としての家はどうでもいいんです。好きな人の心が一番素敵な家だと思います。」と答える場面があった。何という名文句かと感心したが、聖書にはずっと以前から、神の愛への告白として、「主よ、あなたは世々われらのすみかでいらせられる。」(詩90:1)という言葉がある。「すみか」とは、周りを気にせず、まずくつろいで身を置くことの出来る、安心な場所のことである。こうした場所があるかないかということは、私たちの毎日の暮らしや生き方に大きく影響する。同じように、神に知られているということが、結局人の行きつく平安な「すまい」ということになる。私たち一人一人は、神の心の中に置かれた大切な存在であることを覚えたい。それを伝えていくのが、教会の使命である。
いつも思うことであるが、パウロがギリシヤのアテネで、イエス・キリストの甦りについて語った時、「ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、『この事については、いずれまた聞くことにする』と言った」(使徒行伝17:32)ことが記されている。私たちの時というのは、実に今のこの時なのである。この時に、聖書の語るイエス・キリストと、イエス・キリストが父として示して下さった神を、新しい気持で受けとめて欲しいと願う。それはまた、先に召された方たちの願いでもあると思う。