主はカインに言われた

1人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。 2彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。 3日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。 4アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。 5しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。 6そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。 7正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
創世記 4:1-7

創世記の一章ほど壮大で美しく、また限りなく想像を引き出す文章はない。多くの人が心の内にそう感じてきたと思うが、特に、今日のポイントは、「治める」ということである。アダムとエバは、エデンの園から追放されたが、やがて二人の息子、カインとアベルが与えられた。カインという名は、私は得たという意味を表わし、アベルという名は、もともと息、はかないの意、転じて虚しいもの、何者でもないを表わす。このことは、神の御思いが自分たちに向けられていること、自分たちは何者でもないのに、神はなお自分たちを御心に留めて下さっているという意味で、二人のこの名前には、アダムとエバの喜びとへりくだりの心が表わされている。しかしカインは、全ていいことはまず自分のもとに来るものだというふうに育ったのか、アベルの供え物が主に顧みられた時、アベルに対して、強い妬みの感情を覚えた。彼にとって、アベルの存在は不当なものでしかなかった。しかし、カインの心の中の思いは全て神に見通されていた。神はカインに声をかけ、「もし正しい事をしていないのなら、罪が門口に待ち伏せている。それはあなたを慕い求めるが、あなたはそれを治めなければならない」と言われた。しかし、彼はその言葉を簡単に無視した。これは遠い昔の、天地創造の頃の人類の物語ではなくて、私たち人類は依然として今もカインの側の世界にいる。たとえ相手の存在を抹殺するということはなくても、自分の感情で相手の心を傷つけ、あるいは策を講じて相手を陥(おとしい)れるということは、いくらでもある。しかし、もし私たちが神を知り、神に覚えられているということを思うなら、神が求め、期待しておられる「治める」という言葉を、私たちは心の中心に置かなくてはいけない。

ある青年が、何かあると母親は私に「父親に似て嫌な顔だ」と言う。それは、母が本当に自分のことを嫌だと思って言っているようには思わないが、その言葉はいつも自分の心の中に突き刺さっていた。自分に好きな人ができても、その人から、自分か子どもが、やがて母のような言葉を投げつけられるのではないか、という思いが過(よ)ぎるので、自分はいつもひとりだった。今の彼女は向うから積極的に近づいてきて、あなたの目も鼻も口もみな好きだと言ってくれた。自分は彼女によって、はじめて、母の言葉から自由になることが出来たと言っていた。しかし、これは親子の問題だけでなくて、あちこちで見られることではないか。機嫌の悪い時に、あるいは心に何か鬱憤(うっぷん)がたまっている時に、私たちは簡単に人を傷つける。そういうところは、動物とあまり変わらない。それに「治める」と言っても、その前にまず自分自身が自由にされることが必要である。私たちはイエス・キリストによって、いつも自分を見ておられる神の存在を覚えることが出来るから、そのことで、自分の中から余分な感情を切り捨てて、神の前に自分を整えることが出来るし、またそう努めないといけないと思う。

今日はわざわざ読まなかったが、この後のところに、カインによって殺されたアベルの血の声が土の中から叫ぶとあるがこれはカインに対するアベルの恨みの心から出たものではなく、神を求めるアベルの叫びだということである。それは、イエス・キリストが十字架にかけられた時、自分を磔(はりつけ)にした人たちに対して、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)と、執り成しの祈りをささげられたのに似ている。この世はやはりカインの世界である。自分の感情に動かされて動くことが多い。神のこと、神に在ることを思う前に、自分がいつも主になる世界に私たちは生きている。ということを覚えたい。カインがアベルに対して抱いた妬みの感情について、聖書は次のように記している。「憤りはむごく、怒りははげしい、しかしねたみの前には、だれが立ちえよう。」(箴言27:4)「だれが立ちえよう」というのは、その力に誰が立ち向かうことができるのかということである。また、同じ列に並ぶ感情として、「怒り」というのがある。「怒り」については、「怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。」(詩37:8)とある。また、ヤコブの手紙には、「愛する兄弟たちよ、このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。」(1:19,20)とあり、パウロもまた、ローマ人への手紙に、「愛する者たちよ。自分で復讐しないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである。」(12:19)と記している。9・11(’01年)以来、報復という言葉が世界中を飛び交っているが、この言葉はそうした私たちの怒りと憎しみの連鎖を断ち切ることを求めている。「怒り」にもいろいろな性格があるが、怒りが与える影響――怒りは、それを受ける側の憎しみや悲しみ、不安を必ず呼び起こすということーーについても、私たちは知らなくてはいけない。

もし治める力を神が与えて下さらなければ、私たちは私たちの内に容易に働くさまざまな思いや感情に打ち勝つことはむつかしい。旧約の歴史、律法によって、導かれた時代はそうだった。しかし、イエス・キリストが私たちに示された愛と真実によって、私たちは自由になっていくことが出来るのである。その愛と真実に触れることが、私たちに本当の自由を、治める力を与えてくれるのである。しかも、それは約束として、全ての人に与えられているものである。何故なら、いわゆる親とか、彼とか彼女あるいは子どもといった身内の助けというのは、全ての人に与えられているわけではない。また、経済的に豊かな人もいるし、そうでない人もいる。人生というのは、いろんな意味で、既に世界が始まった時からそれぞれに違っており、個別的である。動物や鳥の世界にも、体の大きいものもあれば小さいものもある。自分が生きていくので精一杯というのもあれば、力にまかせて他を支配しようとするものがいる。そうしたことは人間の世界にも動物の世界にもある。それだけに、私たちはどこに自分を置いて生きるかということを、しっかりと心に留めなくてはいけない。生きていく中で、私たちの内に生じる比較とか不公平感とかいうものは常のこととしてある。むしろそれをどのように治めていくかということである。それはまず、主に在って自分の心を治めること、自分の心を、必ず在る神の御支配に信頼して生きるということである。

「というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。」(ヘブル4:12)とある。それはみ言葉自身が光のように、鏡のように私たちの姿を映すということである。私たちは、今だ光を知らない人のように生きてはならない。

2004年5月16日(日)主日礼拝宣教要旨

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