創世記の一章ほど壮大で美しく、また限りなく想像を引き出す文章はない。多くの人が心の内にそう感じてきたと思うが、特に、先程読んで頂いた1〜5節にかけては、そのことを思う。3節の、「神は『光あれ』と言われた。すると光があった。」という言葉を宣教題として掲げたが、この二行に、これから始まる神の力の活動とそのすべての広がりを覚える。
創世記1:1〜2:4は、この世界と人類がどのようにして創られたかを記した天地創造の物語である。ここは聖書全体の前書きのような、それも神話的な印象を読む者に与えるが、創世記の、特に書き出しのこの部分が語ろうとしているのは、神の言葉、意志が、すべてに先立ってあるということである。聖書はこの「はじめに神は天と地とを創造された。」で始まる。私たちはこの言葉に、聖書全体を貫く、非常に大切な意味、事実を示される。この言葉が根底において語ろうとしているのは、神がこの世界を、人が人として生きる場を創られたということである。
創世記は、時代を異にする3つの資料から編集され、紀元前5世紀頃、今の形に完成されたと言われている。(新共同訳聖書辞典)特に一章は、6世紀、ユダ王国が滅亡し、主だった人たちがバビロンに捕らえ、移された先行きの全く分からない、そのような時期にまとめられたものとされている。バビロンにはすでに神々による創造神話があり、都市の守護神マルドゥクが、最高神としての役割りを担っていた。町ではそれに関わる祭りごとや行事が盛んに行われていた。聖書の天地創造の物語は、そのような状況の中で形成されていったと思われる。
「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり」と記されている。川や沼、湖などの水が淀んで深いところを淵というが、一面の闇がその深淵のおもてにあったということである。闇と無秩序の混沌の世界、勿論これは、原始の姿ではあるが、神の心、神の目から見られたら、私たちの住む現実世界も、これとあまり変わらないのではないか。15日夜のテレビでは、イラクの武装グループに拉致された日本人三人が解放されたというニュースが繰り返し放映され、後で分かったジャーナリスト二人も無事解放されたという記事が、今朝の新聞に大きく報道されていた。しかし、昨日の夕刊には、イタリヤ人の人質の一人が、イタリヤ軍がイラクから撤退しない見せしめに殺されたと言う記事が大きく載っていた。このことは、殺されたイタリヤ人家族にとって、一生そこから抜け出せない闇を課せられたように思われる。神は私たちが救いに与り、神からの光を受けて、神を喜び讃美するものとして、生きることを望んでおられるのに、人は次から次へと闇をつくりだしていく存在のように思われる。いつになったら、世界は、光の力を大きく強くしていくことが出来るのだろうか。また、世の中には見た目には決して分からないあるいは聞かされても分からない苦しみ・闇を抱えている人々が多くいると思う。
創世記は、闇と混沌の世界を描きながら、(しかし)「神の霊が水のおもてをおおっていた」ことを記している。「おおう」という言語(ヘブライ語)は、申命記32:11で、わしがひなどりを飛ばせようとして、その巣の上を舞っている様を形容する言葉として用いられている。
「神は『光あれ』と言われた。すると光があった。」この言葉、意志によって、光が来たということは、新しい創造がいのちのいとなみが始まったということである。「神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。」この言葉は、人の生活、一日のリズムを思わせる。私たちには、働くことも休むことも必要であり、また、一日一日を与えられて生きる存在であることを思わせる。「あなたがたの新田を耕せ、いばらの中に種をまくな。」(エレミヤ4:3)という言葉は、神の前に心して、いつも自分を整えていくことの大切さを示している。
今なお私たちの心が照らされ、平安と希望に生きることが出来るのは、まさに無から有を創り出された神の言葉による。ヨハネは、イエス・キリストのことを、光として来られた方として、「始めに言があった」(ヨハネ1:1)という書き出しで記している。おそらく彼はイエス・キリストのことを語ろうとする時、この創世記の最初の言葉、「はじめに神は天と地とを創造された。」を、心に強く覚えていたのではないか。続いて4節まで読むと、「言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。・・・この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」とある。
伝道者パウロもまた、「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照らして下さったのである。」(Uコリント4:6)と記している。このことは、私たちの経験や知識を超えているという意味で特別なことである。ヨハネはその手紙の中で、「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜ったことか。」(3:1)と記しているが、私たちは父なる神の愛を、もっともっと知らなければならない。しかも、神の言葉、み心は、イエス・キリストの十字架の死と愛によって、私たちに伝えられているのである。パウロは、コロサイ人への手紙の中で、「神は、私たちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。」(1:13)と記している。そして、このことは同時に、私たちもみ心を伝えるものになって欲しいとの願いと使命の中に置かれているということである。