今、開いている21章から27章にかけては、エルサレムにおけるイエスの御生涯最後の数日間に起った出来事が記されている。特に今日の箇所は、イエスがロバの子の背に乗って、弟子たちと共にエルサレムに入られた翌日のことである。
前の節に「都を出てベタニヤに行き」とあるから、イエスと弟子たちはエルサレムの町中でなく、エルサレムから東に3キロ近く離れたベタニヤ村で、一日の疲れをいやされたように思う。「朝早く都に帰るとき、イエスは空腹をおぼえられた」とある。朝食をとらずに出られたのか、すがすがしい朝の空気の中で、イエスは空腹をおぼえられた。「そして、道のかたわらに一本のいちじくの木があるのを見て、そこにいかれたが、ただ葉のほかは何も見当たらなかった。」実がなかったのである。ユダヤのいちじくは普通、年に二度実を結ぶようである。冬の収穫は6月頃、夏のそれは8、9月頃。ただし後者の果実の中には落果せずにそのまま冬を越し、サイズを増すものがある。
イエスが求められたのはこの「残果」であろうか。(岩波書店刊。新約聖書1、マタイ21:9、注8)実がなかったことで、イエスがその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえには実がならないように」と言われると、いちじくの木は弟子たちの目にも明らかに、たちまちに枯れた。この記事は、単にそのいちじくの木に実がなかったということでなく、葉ばかり繁らせているいちじくの木の姿に、イエスは神殿を中心とした人々の、形だけの「信仰」の様を見られたのではないか。表向きは神の民として戒め(律法)を守っているが、その根底に、戒めを下さった神に対する愛・畏れがどれ程あるかということである。
神は私たちの目では見ることの出来ないところを見られ、またそこから審かれるということ、その審きの厳しさをここは示しているように思われる。イエスのお言葉によって枯れたこのいちじくの木は、神に選ばれたものであっても神に向って生きていないと、葉ばかりの生活になってしまうということを示している。私たちは、当時の律法学者やパリサイ人ほどではないが、自分は何々をやっているとか、何々はしないように心がけているというだけになっていないか。
実を結ぶという言葉を、私たちは普通、努力の結果を形容する場合に用いる。しかし、主が御自身のものとして受けとられる実、喜ばれる実は、神に向って、神のものとして成長していくその姿勢と、神の目の中で形成されるものである。実を結ぶというのは、神につながるものとしてのいのちが育っていくということである。ルカによる福音書17章で、「わたしたちの信仰を増してください」と言う弟子たちに、イエスは「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになる」(5,6)と語っておられる。問題は、そのからし種一粒ほどの信仰があるかどうかということである。
ヤコブの手紙に、「ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。そういう人々は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。そんな人物は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。」〔1:6−8〕とある。神の存在、その力の働きを疑うということは、キリスト者の場合あまり考えられないが、しかし、生活上のことになると、この生活も神から頂いたもの、神の栄光を称える場としてあると考えるよりも、自分の思いや考えが先になってしまう。場所をとってしまう。正に「二心」の状態になる。「信仰をもって願い求める」ということは、現実に起っている事柄を信仰で受けとめるということである。起っていること事態は、只つらく耐えがたく思うようなことであっても、そこに神の関わりを覚えることが出来る。「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。(ヨハネ16:33)これは、イエスが弟子たちに語られた言葉である。
信仰というのは、神の私たちに対する言葉に触れて、それを基盤に生きることである。「信じて求めるものはみな与えられる」ということは、主との関係、その信頼の中で、もの事を受けとめ、考えることが出来るということである。
今日の一本のいちじくの木のところから、神は見えない心の思い、その姿勢を見分けられる方であるということ、私たちは神の審き、怒りの前にはひとたまりもないものであること、しかし、イエス・キリストによって、神のものとして生きる道を示されていることを心に深く覚え、感謝したく思う。
パウロは、コリント人への第一の手紙2章に、「わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておられたものである。この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった・・・、しかし聖書に書いてあるとおり、『目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた』のである。」(7−9)と記している。これこそ、山が動き、というようなことである。
信仰が神からの賜物・力であるように、祈りもまた神の働きである。祈ることも神から与えられることとして求めていきたい。祈りに対する答えが、いつ、どのような形で与えられるかということは、神の側のことである。私たちは、神からの出合いを、与えられているものとして、自分自身を表わしていきたい。
先日、Yさんを、入院先の東市民病院にお訪ねした。丁度、ご子息が来ておられ、教会のよもやま話の中で、彼が子どもの頃からよく知っている長女のことに触れて、「Mちゃんが三人の子どものお母さん!ひやあー」というようなことから、年月の早さが語り合われた。側で聞いていたYさんが、「年月というのは、恐ろしくもあり、素晴らしくもありますね。」と言われた。特に「素晴らしくもありますね。」と言われた言葉が、いつまでも私の心に残った。そして、その言葉にYさんの信仰の歩みを思った。
自分の目や心には、何の派手さもない人生であっても、神の目が注がれる時、それは輝いているものであることを思った。Yさんはパーキンソン病で、体の自由はあまりきかないが、病に負けない気持で、落ち着いて治療を受けておられる。お祈りに覚えて頂きたい。