今朝の聖書の箇所で一番心に覚えてほしいのは、ペテロがイエスに応えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」(28)という言葉である。その前のところには、イエスのいない舟でガリラヤ湖を渡ろうとしていた弟子たちが、陸から数丁はなれたところで逆風にあい、波に悩まされている様子が記されている。
これは、ガリラヤ湖が山に囲まれた地形のせいで、山から吹きおろす風によって起る現象であるが、思いがけない突風や逆風によっては行手を阻まれ、波に翻弄される小舟の様は、いかにも私たちの現実にも似ているように思う。「イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた」(25)とある。
弟子たちはイエスの姿を見ておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげたとある。このような場合、私たちだったらどうするか。夜明けのもやの中、自分たちが悩まされている海の上を歩いて、近づいて来られるイエスの姿は、彼らにとって、遭難者を招く「幽霊」(ファンタスマ)のように映ったのも無理もない。
「しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて『しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない』と言われた」(27)「わたしである」は、直訳すると「わたしはある」となる。ペテロは一番の年長者だったということもあるし、性格もあったと思うが、その言葉にすぐに「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」と言った。
これは水の上、海の上を歩くという事柄を意識していないということである。「主よ、あなたでしたか・・・」ということは、イエス・キリストのことを知っている、聞かされている、教えられている、ということがなければ、とても言えないことである。しかしイエス・キリストのこと、父なる神のことは、既にこの世に示され、語られている。私たちはどこで、どういうかたちで、イエス・キリストを私の主、私の救主として知ることが出来るのか。ある本に、「信仰とは、イエス・キリストのそばに自分を置くということ」とあった。それは、イエス・キリストと、イエス・キリストが「父」として示して下さった神に信頼を置くということである。
旧約聖書にダビデ王のことが多く記されている。ダビデの若かった頃、当時王であったサウルの妬みをかって、彼は長い間、忍耐と苦難の日々を送ったが、その息子ヨナタンとは、非常に親しい間柄だった。二人の間柄の確かさは、その中心に、いつも神がおられたということにある。またダニエル書3章には、異国の地で試みに会う三人が、バビロンの王ネブカデネザルに答えて言う言葉に、「たといそうでなくても」(18)という一節がある。たとい神が私たちを助けられなくても、私たちはあなたの神々に仕えず、あなたの立てた金の像を拝みません、と言って王の命令を拒否する場面である。
今日のテキストに戻るが、ペテロは、イエスの「おいでなさい」という招きに応えて舟を降り、水の上を、イエスの方に向かって歩いて行ったが、風を見て恐ろしくなり、おぼれかけたので、思わず「主よ、お助けください」と叫んだ。(20,30)きっと、風を見たことの中に、同時に自分のことを思ったのではないか。自分は主イエスを信じ、主に向って歩いている。しかし、それは一体どういうことなのかと思った時に、彼の足は海の深みにずぼずぼと沈んだということである。重心が主イエスにでなく、自分にかかった。このようなことは、何度でも起こりうることである。
しかし、自分を知るということと、自分に重心を置くということとは違う。ここを私たちは間違えないようにしたい。自分に重心を置くということは、自分の考えや判断を全てとすることである。確かに私たちは生きていく上で、いつも沢山のことを判断し、きめていくようになっている。考えてみると、細かいことから大きなことに至るまでいろいろとある。
ヨハネ福音書8章に「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(31,32)とある。コリントの教会に宛てたパウロの手紙の中に「わたしたちに心を開いてほしい」という一節がある。
「信頼の中で」という題を掲げたが、信仰によって分かったところを大切に、主イエスとの関係の領域を少しでも広く、大きくしていくことが私たちに求められている。ペテロは、おぼれそうになった時、すぐ「主よ、お助けください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた。「信仰の薄い者よ、(原語は「信仰の小さい者」)なぜ疑ったのか」(31)。
勿論彼は主を疑ったのではない。波の動きに捉われて、イエスから目をはずしたのである。もし私たちが、信じているということは一体どういうことなのかと疑いはじめたら、現実の波が私たちを呑み込んでしまうことは、いとも簡単なことである。しかし、自分に頂いたもの、イエスに信じ従うという信仰の賜物を本当に大切なものとして、その事実に信頼を置く時、私たちはどのような逆境の中にあっても、祝福と平安、救いのなんであるかを知ることが出来る。
教会はイエス・キリストを主と信じ、告白する人たちの群れである。イエス・キリストを信じることにおいて祝福を受け、その働きを任せられていくのである。イエス・キリストに信頼し、自分を明け渡して、「助けてください」と叫ぶなら、主はすぐに手を伸ばして、この私をつかまえてくださる。しかし、これは、ひとりひとり、神とその人だけに分ること柄である。
私たちはそれぞれ神の前には、イエス・キリストの前には、大勢の中のひとりではなく、まさに波の中におぼれ沈んでいくひとりひとりなのである。多くの場合そのことすら気がつかない。「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」(ヨハネ5:24b)というのは、このことに関係する。イエス・キリストを主と信じることを言葉にも、日々の生活にも表わしていく者でありたいと思う。
「われらは主の聖なるみ名に信頼するがゆえに、われらの心は主にあって喜ぶ。」(詩33:21)「神はひとたび言われた、わたしはふたたびこれを聞いた、力は神に属することを。」(詩62:11)