2007

あなたがたはこの世の旅人であり
寄留者である

11愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。 12異邦人の中にあって、りっぱな行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て、かえって、おとずれの日に神をあがめるようになろう。 13あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。主権者としての王であろうと、 14あるいは、悪を行う者を罰し善を行う者を賞するために、王からつかわされた長官であろうと、これに従いなさい。 15善を行うことによって、愚かな人々の無知な発言を封じるのは、神の御旨なのである。 16自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさい。
ペテロの第一の手紙 2:11-16

今年もあと3日で終る。2003年の最後の主日礼拝を共に守ることが出来たことを感謝したい。年も終りに近づくと、身の回りの片付けや整理等、しなければならないことにどうしても目がいく。多くの人はそうすることで、一応の年末の区切りをつけるのだろう。医者をやっている家内の姉夫婦などは、毎年のように年末年始をホテルで過ごしている。そのことによって、ある意味で区切りをつけているのである。しかし、考えてみると、自分の人生に関しては、いつ区切りがつけられるのか、誰にも分からない。それは、年末が近づいて考えるというようなものでなく、やはり常日頃から、自分のいのちのことについて思いを馳せることが大事ではないか。

新約聖書のTコリント7章で、パウロは「兄弟たちよ。わたしの言うことを聞いてほしい。時は縮まっている。今からは妻のある者はないもののように、泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持たないもののように、世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである。」(29−31)と記している。これは、私たちが本当の意味で、自由であることのために示された言葉である。「買う者は持たないもののように」とある。私たちはどうしても、持っているものに、見るとか味わうということに、多く目や心を囚われてしまう。人が存在することに、何かを持つということとは、直接的な関係はないが、人は形のあるもの無いものにかかわらず、何かを持つこと、身につけることで、安心したり、確かな保障を得たような気になる。また、新約聖書のヤコブの手紙4章に、「よく効きなさい。『きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一ヵ年滞在し、商売をして一もうけしよう』と言う者たちよ。あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。」(13,14)とある。

さて、テキストに戻って、「愛する者たちよ。(原意は「愛されている者たち」)あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。」とある。「肉の欲」というのは、神を知らない心、その状態から生じる、さまざまな感情や行動をさして言った言葉であり、しかも、ここで語られているのは、肉の欲=誘惑と戦うのでなく、それを避けなさいということである。立ち向かうだけでなく、避けるというかたちの戦い方があるということは、しっかり覚えておかなくてはいけない。また、「異邦人の中にあって、りっぱな行いをしなさい」とある。「異邦人」というのは、もともとユダヤ人がユダヤではない諸外国の人たちに対して使った言葉であるが、ここは、神を知らない人たちの中にあって、ということである。こういう状況は、日常的に私たちの周りにいくらもある。この「りっぱな行い」に「りっぱ」(ギリシア語でカロス)という意で、非の打ち所が無いと言うよりも、その生き方や考え方に魅力があるということである。魅力のつけ方はいろいろあるが、要はその人が何を目指しているかということである。端的に言えば、神の国を知っているということになるが、これは誰もが招かれていて、しかし誰もが経験できることではない。

「そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て、かえって、おとずれの日に神をあがめるようになろう。」とある。「悪人呼ばわり」するというのは、この世の習慣や価値観に沿わないことに対しての場合が多い。人は自分に同調しないもの、異質と思われるものに対して、容易に心を開かないものである。しかし、彼らもあなたがたの、その生き方を見て・・・」とある。日本には昔から「旅の恥はかき捨て」という言葉がある。自分を知る者のいない旅先での恥は気にとめずとも良いという意味か・・・。聖書は「あなたがたは、この世の旅人であり、寄留者であるから・・・」というところからその生き方を語る。そしてそれは、「国籍を天に」(ピリピ3:20)もっているということと結びついている。つまり、私たちは「国籍を天に」もつ者として、この世では旅人・寄留者なのである。国籍が天にあるということは、単に行き先がきまっているという安心のためではない。国籍を天に持つ者としてこの世を生きよということである。

次に「あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。」(3)とある。「人の立てた制度」を意識する時、私たちはそれに従うことに、時として矛盾や抵抗を覚える。しかし、制度が作られる以前に、神からのいましめがあった。最初の原点は神のいましめである。それが、「すべて人の立てた制度」らの基にきている。只そこに、人間の思いや欲望が入ってくるから、本来的な、お互いのためとか、弱い立場の人を助ける、守るというところが薄くなってくる。

教会学校では、今日、民数記16:1−35から「役割と秩序」というテーマで学ぶことになっている。何故モーセかという不満がレビ族の中から起った。聖書を開くと、彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らって言った、「あなたがたは、分を越えています。全会衆は、ことごとく聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、どうしてあなたがたは、主の会衆の上に立つのですか」。モーセはこれを聞いてひれ伏した(4)とある。彼らの言葉は、モーセがひれ伏したように、一瞬、私たちの心を引きつける。これは、モーセに従うことに対する苦痛と、それぞれに自分が先に立ちたいという思いがあって、そこから出た言葉である。自分からしたいことあるいはしようと思うことで、よくこうあるべきだというふうに引っ張られると、何故という気持が出てくる。それは、言葉を変えて言えばレビ族の指導者たちの中に、党派心や対抗意識といった肉の働きが出てきたということである。人間というのは、自分では気がつかない自我と、それが正しいかどうかということは必ずしも一致しない。その思いがどこから出ているかという吟味が必要である。

こうして、私たちが教会に集められているということは、神から選ばれているということであり、愛されている者として、助言や道筋が示されているということである。「あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるのだから」という言葉は、非常に祝福に満ちた導きの言葉である。神の恵みを深く味わってほしい。

2003年12月28日(日)主日礼拝宣教要旨

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