ここは、聖書の中でよく知られている箇所である。小学生も大人の方も、出来れば劇の脚本のように書き出して、何度も何度も繰り返して読んでみられると――そうして頂きたいのであるが――荒野で試みに会っている主イエスのお姿と悪魔との会話・話しが、自分がこれから経験する世界、経験してきた世界とそんなに隔たりがないように思えてくる。この箇所には三つの場面が紹介されているが、共通しているのは、悪魔(3節では「試みる者」)が、「もしあなたがたが神の子であるなら・・・」という言い方をしながら、神を無視するように誘いかけているところである。
申命記8章に「あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。」(17、18)という言葉があるが、主イエスは、聖書の言葉を用いての悪魔の誘いにも、心を動かされなかった。むしろ、「『主なるあなたの神を試みてはならない』と書いてある。」と言い返されている。同じく申命記6章18節には「あなたは主が見て正しいとし、良いとされることを行わなければならない。」という言葉がある。
先程、悪魔は「もしあなたが神の子であるなら」という言い方をしながら、神を無視する誘いを主イエスに仕掛けていると言ったが、私たち人間には、神を信じない人も、あるいは神を信じていても、自分は他の人と違うのだという意識、そう思われたい願望がある。そのことのために、自分に与えられている能力を活かして、懸命に努力する。そして、例えば、今やオリンピックなどでは、勝敗を決めるタイムは分や秒単位ではなく、コンマ何秒という差になっている。競技の世界に限らず至るところに比較が存在する。
しかし、人の、あるいは人としての本当の価値というのは、他の人に勝って何かが出来るとか、有名になることの前に、神に知られている者であることを知っているというところにある。創世記の一章に、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。(27)という言葉がある。この「かたち」(原語ツエレム)というのは、影とか像の意であり、視覚的な外形のことではない。神の言葉に生きるもの、神に立つことにおいてその義と愛を映して生きるもののことである。
悪魔は「もし神の子であるなら・・・」という誘いに、主イエスがのらないことを見てとると、戦法を変えて、主イエスを高い山に連れて行き、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、ひきかえに、この世のすべての国々とその栄華とを皆あなたにあげましょう」と出た。それに対しても主イエスは、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」と答えておられる。人は神を畏れ、神を敬う心を失う時、容易に神を無視して、自分を主としてしまう傲漫さを持ってしまうことを思う。
マタイ4章は、「さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。」という言葉で始まっているが、3節から11節までの箇所は、荒野で、「四十日四十夜、断食をされた主イエスの体験された、幻の中での戦いの内容であり、主が弟子たちに語られたことを、マタイ、マルコ、ルカが、記したものである。イエス・キリストとサタンの戦いは、壮大な景色の場面の中で紹介されているが、私たちは、自分の日々の現実の中で、神を無視してしまう働き、自分の気持を主としてしまう働きについて、いつも気をつけることが大切である。
ここでひとつ、これは病院での待ち時間に聞いたあるおばあさんの話であるが、「自分の家は貧乏で父も母も働いていた。私はばあちゃんに育てられたが、誰からも可愛がられた記憶はない。母さんは特に疲れていて、いつも無口だった。私は早くに家を出て結婚したが、これまた親と同じような暮しで、息子は早くに家を出て行って、便りもよこさん。今、自分に出来ることは、せめて人さまに迷惑をかけんよう、体に気をつけることですわ」ということだった。
今日のところには、貧しさから来る悲しみ、別れの悲しみ、老いの悲しみ等について特に記されていないが、しかし、主イエスは、すべての現実をひっくるめて、私たちの前に、先に、その生きる姿を通して、私たちに戦う方法を示して下さった。「荒野」は今なお、私たちの心の中に、ひとりひとりの現実の中に、広がって存在している。私たちは、その中をどう生きていくか、ということである。
最後に聖書の言葉を二ヶ所、紹介させて頂く。一つは主イエスの言葉である。「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16:33)
もう一つは、Tヨハネ5章から、「また、わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。さらに、神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さったことも、知っている。そして、わたしたちは、真実なかたにより、御子イエス・キリストにおるのである。このかたは、真実な神であり、永遠のいのちである。」(19・20)