目をさまして、感謝のうちに祈り

2目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい。 3同時にわたしたちのためにも、神が御言のために門を開いて下さって、わたしたちがキリストの奥義を語れるように(わたしは、実は、そのために獄につながれているのである)、 4また、わたしが語るべきことをはっきりと語れるように、祈ってほしい。 5今の時を生かして用い、そとの人に対して賢く行動しなさい。 6いつも、塩で味付けられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか、わかるであろう。
コロサイ人への手紙 4:2-6

7日朝日新聞の「天声人語」に、次のようなことが書かれていた。その光が発せられたのが128億3千万年前だった。ハワイの『スバル望遠鏡』が観測した最も遠い銀河である。続いて、宇宙の年齢については、今年2月、米航空宇宙局(NASA)の発表した137億歳説が今のところ最も有力である。又1929年、宇宙の膨張していることを発見したハッブル(現代天文学の父)が、その年齢を約20億歳と推定していたことと、谷川俊太郎さん(当時21才)の詩が、ハッブルの宇宙と呼応していたとして紹介され、その詩の・・・二十億光年の孤独に、僕は思わずくしゃみをした、という表現に、「宇宙の果てしない広がりにおののきつつも、些細な日常を繰り返すのが人間である」とあった。

教会学校では、今月に入って旧約の民数記を学んでいるが、今日のところ(11:1−30)は、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民の、シナイの荒野でのことである。4-6節に、「また彼らのうちにいた多くの寄り集まりびとは欲心を起し、イスラエルの人々もまた再び泣いて言った、「ああ、肉が食べたい。われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも。しかし、いま、われわれの精根は尽きた。われわれの目の前には、このマナのほか何もない。」とつぶやいたと記されている。「エジプトでは、ただで」とあるが、彼らは自分たちが奴隷であったことを忘れている。それ程に荒野の旅は辛かったということだと思うが、その辛さに、自分たちに注がれている神の愛、その御計画や導きについては、何の感謝も喜びも覚えられなくなっていた。しかし、この時の3千年もっと前の、イスラエルの人々の気持には、今の私たちにも分かるものがある。人は毎日の暮らし−−感じたり、考えたり、何かをこなしたりすることの中で、力を使い果たしながら生きているように思う。

昨夜のNHK教育番組(ETVスペシャル再)では、10時半から12時までの時間を使って、養老孟司という解剖学者の語る番組があった。「バカの壁」という本が大ヒットしているということからだろうか。私は録音したものを聞いたが、終わりのほうになって、「結局のところ『バカの壁』とは何なのか」というインタビュアーの問いに対して、「人が育つということが、ものが分かってくるということだとすれば、それは絶えず『バカの壁』を乗り越えていくことではないか」ということだった。要するに人生には、自分では分からないこと、分からないとしていることが沢山あるということである。また沢山の死体解剖をして分かったことは、人間、死んでしまったら皆同じなのに、生きている時は相手との違いが争いや殺し合いになる。そんな時は相手もいずれ死ぬと思えばいいのだが、ということも言っておられた。しかし、私たちは身近なところで、特に身内や親しい友人との中で、さまざまな思いを味わいながら生きていることを思う。

さて、今日の聖書の箇所は、私たちの日々の生活の中で、「目をさます」ということと、「感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続ける」ことが、非常に大切なこととして語られている。「目をさまして」というのは、「神のみ思いの中にいる自分、神との関係の中に置かれている者としての自分自身を知るということである。その「目をさます」ことが、感謝を引き出すのである。聖書にわざわざ、しかも繰り返し「目をさます」ことについて語られているのは、そうでない状態に、私たちはいつでも陥りやすいということである。私たちは、沢山の不満なことに対しては敏感になるが、沢山の感謝すべきことに対しては気付きもしないということが多くある。祈りは、私たちにそのことも知らせてくれる。

祈りとは、神の近さである。御支配を信じて、そこに自分を置くこと、あるいは相手を思いみることである。また祈りに関して、旧約聖書、例えば今日CSで学ぶ民数記11章のはじめに、「モーセが主に祈ったので、その火はしずまった」(2b)とある。また他のところには、エリヤという預言者が祈ったら火が下ったとか、雨が降ったという記事があり、そのようなかたちで祈りというものがとらえられているが、神がイエス・キリストを通して、どのように私たちが育つことを望んでおられるかを考える時、神と私たちを結ぶイエス・キリストの祈りがまず、常に先にあることを思う。ヨハネ福音書17章に、「父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。」(24a)とある。私たちは既にその祈りの中に置かれているのである。更に「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである」(ローマ8:26)とある。次の「ひたすら祈り続けなさい。」の「ひたすら」というのは、たゆみなく、中断しないということであるが、「祈り続ける」というのは、「行」として行えという意味よりも恵みの事実、その確かさからはずれないようにということである。私たちは携帯電話やEメールで遠く離れた相手と会話をするが、神との会話(祈り)は、そういうわけにはいかない。短く、あるいは途中で何を話したらよいか、途切れてしまうこともよくある。祈りにはいいろいろなかたちがあってよいと思うが、聖書を読んで考える、祈る、学ぶということは、続けていく上で大切な力となる。

さて、パウロは、次の3節でただみ言葉を伝える機会が与えられるように、キリストの奥義が語れるように、語るべきことをはっきり語れるように祈ってほしい、と記している。「キリストの奥義」については、キリストの内にあるものと理解してよいと思う。それはただ、誰にも分からないように包み隠された状態であるのではなくて、求めれば誰にでも与えられるかたちでキリストの内にあるものである。バークレーという聖書学者は、キリストの奥義を語ること、そこにクリスチャンの使命があると言っている。クリスチャンというより、人には真の神、帰るべき魂の故郷(ふるさと)としての神を知ることが求められている。また、その神の心であり、愛のしるしであるイエス・キリストを伝える使命がある。そのことをしっかりと自覚する時に私たちの人生は、限りなく広く、豊かになっていくと思う。

5節に、「今の時を生かして用い」とある。「今の時」とは、まさに生きている今の時、「生かして」の原語(エクサゴラゾー)は、「買い占める」の意。市場で代金を払って物を買う時に使われる言葉でもある。「今の時」、それは、瞬時に過ぎてしまうような時にもなれば、将来のために用意されていく時にもなる。「そとの人に対して賢く行動しなさい。」とは、神を知った者として、心を働かせていくということである。

6節は、「いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。」とある。塩は少量でも無いと生活に困る。そういう意味で貴重なものである。だから、「塩で味つけられた、やさしい言葉(やさしいの原語のカリスは恵み、魅力、優美の意)というのは、自分でわざわざそのように味つけするということではなく、主のものとされる恵みを知ったところから出てくる言葉のことである。

ヨハネ14章に、「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。」(18)という主イエスの弟子たちに語られた言葉があるが、神は常に、私たち一人一人が、神に対して、イエス・キリストに対して常に目をさまし、置かれたところで感謝の力に浸されて歩んでいくことを求めておられるのである。

2003年11月9日(日)主日礼拝宣教要旨

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