先週も蒸し暑い一週間だった。私にとって一週間は、早いという気もするが、皆さんとお会いする楽しみを思うと、主の日を迎えるのが待ち遠しくもある。
さて、「聖書教育」の今日学ぶ小学科のところに、星野富弘さんの詩が紹介されていた。星野さんという方は、教会図書コーナーに本もあるが、1970年、高崎市の中学校に体育教師として赴任間もなく、クラブ活動指導中に落下。頚椎を損傷して、一挙に体の自由を失った方であるが、今は口でくわえた筆で描く詩画の一つ一つが、多くの人の心を引き付け、励ましている。紹介されていたのは、<花の詩画集>「鈴の鳴る道」に出てくる「いのちが一番大切だと思っていたころ 生きるのがくるしかった いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった」というものである。
渥美郡の田原に、沢田睦朗さん・陽子さんという御夫妻が住んでおられる。陽子さんは、病名はむつかしくて覚えていないが、先日のお電話によると、三歩歩くと激痛が走る状態で、医者から、このままいけば寝たきりに、手術を受ければ全く治るか死んでしまうかのどちらかだと言われ、その場で手術を希望したということだった。「今月末、娘が出産するので、それが終ってからと痛みを我慢しています。」ということだった。
お話の中で、「私が教会から離れていた時代、母が『あなたが神さまを忘れても、神さまはあなたを忘れてはいないよ』と言った言葉が何故か心に残って、人生に対して素直になっていく力になった。主人はどう思っているか知らないが、私は毎朝、神さまに、今日一日も与えられたことを、主人のことと共に感謝して祈るんですよ。」と言っておられた。
御主人は、小林先生の特別集会の時、陽子さんの代わりに、朝の7時に家を出て、10時からの礼拝に参加して下さった。御主人がいつ活ける神、キリストと出会われるか分からないが、主は待っていて下さることを思う。
この世界には、まだまだキリストの名だけは聞いたことがあるという人や、家族が教会に行っているというだけの人が沢山いる。そうした中で、私たちがこうして教会に集まり、神を讃美し、教会の働きにつながっているということは、全く特別なことである。ヨハネによる福音書6章44節に「わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。」という主イエスのお言葉がある。「引き寄せる」というのは、逆って働くさまざまな力に抗してということだから、こうして主の日に礼拝に共に与っているということは、それぞれに「父の引き寄せ」を頂いているということである。
これは、特別に祝されたことであるが、それでいて、この世のさまざまな出来事に合う時、私たちは自分の無力さを感じることが度々ある。この「ピリピ人への手紙」を書いたパウロという人は、当時、ローマの植民地で、またユダヤ教の根強い地盤の中にあって、「イエスはキリストである」と語った。これは、大変勇気のいることであった。全く理解されようとはしない空しさの中で、パウロがしっかりと立っていけたのは、「十字架の言(ことば)」(Tコリント1:18)に集中したからである。「なぜならわたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。」(Tコリント2:2)とある。
「十字架の言」とは神の前に亡ぼされて自然な人間のために、神がいかに驚くべきことをなされたかという、神の愛と痛みの物語である。ローマ人への手紙11章後半に「兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。」(25)という言葉がある。この神の奥義こそ、私たちの弱さを弱さとして受け止める勇気、また神の前に知られている者としての強さを引き出していく力となるものである。
世の中にはさまざまな力が働いている。軍事・経済・政治の力があたかも世の中を仕切っているかに見える。しかし、そればかりが力ではない。「わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力がある。」(Uコリント13:8)この「真理」は、神の言・イエス・キリストの福音をさしている。パウロはまた「キリストの愛がわたしたちに強く迫っている。」(Uコリント5:14)と語っている。キリストが私たちに対して持つ力、それは愛の力であり、真理の力である。
キリストに信じ、キリストに期待していくことが、神が活きて働いておられることを分かっていく力となっていく。それはまた、星野さんの「いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」につながる。信仰は人をひとりの個人として神に向かわせる。しかし、信仰は同時に他の人と共に生きることを私たちに求める。パウロは、Uコリント1:14で「私たちの主イエスの日には、あなたがたがわたしたちの誇であるように、わたしたちもあなたがたの誇なのである。」と語っている。私たちの日々は、顔と顔を合わせることはなくても、「イエスは主である」と讃美する多くの証人と共に、神の歴史の中にあることを感謝したい。
12節に「わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。」とある。Tコリント2:9に(イザヤ64:4、65:17からの引用として)「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」とあるが、救いとは、このことを知らされ、知っていくということである。それはまた、生活の部分部分が変えられていくこと、変えられていくようにするということでもある。「達成に努める」の「努める」は、働いて何かをつくり出すの意である。自分で働いて救いという財産をふやしていくということである。
しかし、「救い」は自分でつくり出したり、ふやしたりすることの出来るものではない。人はすぐ自分の力を過信する。「恐れおののいて」とあるのはそれをいましめるためである。13節「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」私たちの側からは、神を知ることは出来ない。
まず、神が私たちを、御自身との関係に入るもの、その関係の中で生きるものとなるようにその道を備え、求めて下さるのである。私たちに出来ることは、どのように苦しい事柄や、悲しい出来事に合っても、そこで働く神の御支配と恵みの力を信じて、自分の内側からの罪に支配されないことである。パウロは、ピリピ1:21で「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。」と記している。何よりも大切なことは、生においても死においても、キリストの愛のうちに覚えられているということである。このことを更によく知って、その喜びと力の中に日々を生きていきたく思う。