この手紙は、パウロがコリントの教会の中にあったいくつかの問題に関して、エペソの地から書き送ったものである。(Tコリント16:8,9)手紙の最初に位置するこの箇所は、教会の中にいくつもの分派があり、それがねたみや争いの原因になっていたことを物語っている。分派問題に関しては、3章のはじめにも記されているが、パウロは、そうした教会の中で起っている問題(1:10−16)に触れながら、「いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。」と語り、「それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。」(17)と、伝道者としての自分の立場、福音の核心を明らかにしている。
宣教題を「十字架の言(ことば)は」とした。「言」(ロゴス)は、この場合、十字架が私たちに語ることば、あるいは意味する内容ということになるが、それとしては何も記されていない。英語の聖書では、「キリストの十字架の死についてのメッセージ」(TEV)、「十字架の教理」(NEB)、「十字架の教え」(KJV)、「十字架の使信」(M,L)、「十字架の物語」(Mof)と、いくつかの訳が試みられている。私は、最初「十字架の物語」とした方が、立看板を見て通る人たちにも、分かりやすいのではと考えたが、結局、聖書の言葉をそのままに宣教題とした。
特に18節はよく知られた言葉である。しかし、よく読んでみると、知っている程には分かっていないことに気付かされる。「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが」という言葉も、分かりやすいようであるが、では「滅び行く者」として、誰を見るのかということである。例えば、自分の愛する、しかし、まだ救にあずかっていない家族の者たちを、「滅び行く者」という形容詞で括れるか、ということである。ここには「滅び行く者」と、「救にあずかるわたしたち」という言葉が記されているが、そうした区別が、私たちにはっきり分かるようなかたちで、現実にあるわけではない。
また、そういう目で人を見ることは誰にも許されていない。「滅び」とか「救い」というのは、神の側からの見方というふうに考えたい。「滅び行く者」という形容は、ある意味で人間の姿というか、その全体をひっくるめて言った言葉である。そして、そういうことで言えば、十字架の言、そのメッセージは、例外なく、一人一人に向けて語られているものである。
パウロはここで、「十字架の言は、救にあずかるわたしたちには、神の力である」と語っている。それは、単なる言葉や教えではなく、何よりも力なのである。パウロはまた、他の箇所で、「神の国は言葉ではなく神の力である」(Tコリント4:20)と語り、また、「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。」(ローマ1:16)と記している。この言葉は、完全に打ちのめされて、自分ではどうすることも出来ない者を、再び立ち上がらせる力のことを言っているのであって、「救にあずかるわたしたち」という言葉も、信仰の故の、厳しい戦いの中で語られたものであることを思わなくてはならない。パウロにとって、「十字架の言」は、単なる知識や教養でなく、現実に、彼自身をつき動かす力そのものであった。
朝日新聞に、元力士の舞の海が、スポーツ界で活躍する選手にインタビューする「戦士のホットタイム」というコーナーがあって、時折目にする。少し前のことになるが、――自分を信じて「走れ!」――という見出しで、恩田美栄(おんだよしえ・フィギュアスケート選手)と言葉を交わす記事があった。(舞)「ところで練習の休みはありますか?・・・」(恩)「ほとんどないですね」(舞)「疲れがたまりませんか?」(恩)「休むときはあるんですよ。疲れが限界という時は、最近は考えて休むようにもしていますが、基本的には毎日練習しています。疲労の問題以前に、スケートの感覚がわからなくなるんです。」(前後文省略)。
私はこの記事を読み乍ら、この「感覚」を失わないことが、彼女の意欲、闘志、喜びとなっているのを感じた。これは、非常に大切なことである。私たちは、信仰の体力を一体、どのようにつけるのだろうか。
先日、宣教の御奉仕をして下さった鈴木(重義)先生が、お話の中で、「礼拝が終わった途端に、これからが自分の時間だというふうに思うのは、正しい礼拝の守り方ではない。次の礼拝に備える日々が、私たちに委ねられていると考えるのが、クリスチャンの姿勢のように思う。」と言われたが、恩田選手が走っていく感覚を大切にしているように、私たちも、自分がキリスト者であることを大切に、且つ喜んでいきたい。
福音書の中に、イエスの語られた有名なたとえがある。「見よ、種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。ほかの種は土の上の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種はいばらの中に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。・・・」と、続くのであるが、そのすぐ後にイエスの説き明かしがあり、「いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。」(マタイ13:1−23、他にマルコ4:1−20、ルカ8:4−15)とある。
この場合の「いばら」というのは、私たちの想像するトゲのあるあの「いばら」ではなく、ある意味で、柔らかくて、快適な「いばら」である。また、「誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい」(マタイ26:41、他)というイエスのお言葉もあるが、誘惑というのは、最初はみな警戒心を与えるようなものではない。
しかし、気が付いた時には、自由を奪われているというのが現実である。そして、そこから抜け出すには、相当な戦いとエネルギーを要する。鈴木先生はまた、自分の本音のところで、神さまのことを、神さまに対してすることを喜んでいるのでないといけない、と言われた。私たちは、救いにあずかった者として、建前と本音の部分が一つに合わされるところを多くしていくことが大切である。スポーツの場合は、どんなに楽しいと言っても、年齢とか体力の限界ということがあって、いつまでも続けるというわけにはいかない。
しかし、福音は、最後は、祈るというかたちにおいても、私たち自身のものとして保たれていく。「この宝を土の器に」(Uコリント4:7)というパウロの言葉があるが、イエス・キリストの福音という大切な宝を、どのように深く知り、喜んでいくか。このことを常に心に留めて努めていきたい。伝道とは、何を喜んでいるか、ということが、回りの人に感じられていくことである。神は、私たちの分からないところで働いて下さるのである。