あなたの もろもろの思いは いとも深く

1いと高き者よ、主に感謝し、み名をほめたたえるのは、よいことです。 2あしたに、あなたのいつくしみをあらわし、夜な夜な、あなたのまことをあらわすために、 3十弦の楽器と立琴を用い、琴のたえなる調べを用いるのは、よいことです。 4主よ、あなたはみわざをもってわたしを楽しませられました。わたしはあなたのみ手のわざを喜び歌います。 5主よ、あなたのみわざはいかに大いなることでしょう。あなたのもろもろの思いは、いとも深く、 6鈍い者は知ることができず、愚かな者はこれを悟ることができません。 7たとい、悪しき者は草のようにもえいで、不義を行う者はことごとく栄えても、彼らはとこしえに滅びに定められているのです。 8しかし、主よ、あなたはとこしえに高き所にいらせられます。 9主よ、あなたの敵、あなたの敵は滅び、不義を行う者はことごとく散らされるでしょう。 10しかし、あなたはわたしの角を野牛の角のように高くあげ、新しい油をわたしに注がれました。 11わたしの目はわが敵の没落を見、わたしの耳はわたしを攻める悪者どもの破滅を聞きました。 12正しい者はなつめやしの木のように栄え、レバノンの香柏のように育ちます。 13彼らは主の家に植えられ、われらの神の大庭に栄えます。 14彼らは年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、 15主の正しいことを示すでしょう。主は、わが岩です。主には少しの不義もありません。
詩篇 92篇

13日の午後、婦人集会を終えて、春日井の保田井先生ご夫妻をお訪ねした。善吉先生は96歳、美代子夫人は95歳。足が弱られ、耳も遠くなられたが、お二人とも元気に日々を送っておられる。ベッドに横たわっておられた先生に、「ご気分は如何ですか。」とお尋ねしたら、「どこといって悪くないんです。ただ体がだるいだけですから、これは老衰でしょうね。」と言っておられた。しかし、介護とリハビリといった日常もあるわけで、ただ体を横たえているというだけではない、きつさもあるということも感じた。美代子夫人が、「最近よく夢を見るんです。それがみな天城山荘を小さくしたような教会で、やれお布団が足りないとか、食事の数は大丈夫かとか言いながら忙しくしている夢なんです。」と言われた。

本当は動けるはずなのにと思いながら、渾身(こんしん)の力で動いていたかつての記憶を甦らせておられるのかも知れないと思った。讃美歌の「あめにたからをつめるものは」(513)と「しずけきかわのきしべを」(520)の二曲を歌い、み言葉を頂き、共に「主の晩餐」の時をもったが、自分の生をありのままに受けとめて生きておられるお姿から、厳しさだけではない、平安な豊かさをいつも覚えさせられる。

今朝の宣教題を5節からとって、「あなたのもろもろの思いは、いとも深く」としたが、先ず前提に、自分たちは、しばしのいのちの時を許されて、今の時を生きているのだという「畏れ」があるということ。小見出しに「安息日の歌・さんび」とあるが、神殿での礼拝で用いられたものであろう。1〜4節は、礼拝への招きの言葉になっている。「いと高き者よ、主に感謝し、み名をほめたたえるのは、よいことです。」とある。「よいこと」(ヘブライ語でトーブ)というのは、「さいわい」とか「喜ばしい」という意味の言葉であるが、原文では、この言葉が先に来て、「何とさいわいなことか、主に感謝し、み名をほめたたえることは・・・」となっている。

最後(15)に「主はわが岩です」とある。これは、92篇の中で特にしっかりと心に留めて欲しい言葉である。聖書は大切なことを繰り返し語っているが、「岩」という言葉(形容)もその一つである。(「主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、・・・」(詩18:2)「神こそわが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしはいたく動かされることはない。」(同62:2)他)私たちは、自分にとっての岩が何であるか。何を岩としてより頼んでいるかということをいつも心に留めて、考えてみることが大切である。私たちは、何かあった時、例えば地震、台風、あるいは突然の事故とか病気になった時のことを考えると、不安な気持におそわれるものである。

聖書に「明日のことを思いわずらうな」という言葉(マタイ6:34)がある。人生訓・処世訓のように、一般的によく知られた、そして、何となく覚えている言葉、なる程と一応は思っても、分かり難い言葉である。もし、誰かからこの言葉について聞かれたら、これは、先のことは分からないのだから、思っても仕方のないことだということではなく、今の時を精一杯生きなさいという勧め、促しの言葉であると答えて頂きたい。

考えてみると、私たちが生きていると言えるのは、まさに今の時である。私の生きているのは、現在と形容される、常に今のこの時に限って言えることである。しかしこのことは、実感のむつかしいことでもある。

話は変わるが、先週、「たそがれ清兵衛」という映画を観た。藤沢周平の作品を山田洋二監督が映画化したもので、これは是非観て下さいと言われていながら、時間もなくて今回となった。時代は徳川幕府藩政末期の頃。激しく変動する時代、立身出世のチャンスをなんとか掴みたいと友人の武士たちが動く中で、主人公の清兵衛は、あるをもって足れりとする生き方を通していく。一見平凡な一人の人の生き方が、何故に多くの人の心を引き付け、またこの映画が数々の賞を獲得したのか。やはり、今の時代に失われているものが描かれているからではないかと思った。彼は妻に先立たれ、少し痴呆のかかった老母と、5歳と12歳だかの娘を抱え、藩の役所仕事をしているわけだが、仕事の終わるたそがれ時には、友人の誘いに一切のらず、家に帰り内職の仕事に精を出す。彼は娘たちの成長を唯一の楽しみに、今の時の中をしっかりと生活していくわけである。しかし、時代の流れ、所属する藩の組織の動きは、彼の人生までも左右していく。剣の道に優れていた清兵衛が、鉄砲玉に当たって死んだということは時代を感じさせて、何とも言えないものがあるが、映画の最後の場面で成人した長女が「父は圧倒的な力をもった官軍との戦いで、鉄砲に撃たれて死にました。父の何人かの友人は出世して偉くなり、その人たちの間で、『清兵衛は不運な男だった』と語られたと聞きましたが、私はそうは思いません。父は幸せであったと思います。」と語っていた。そしてこの言葉こそが、この物語を輝かしていると思った。

今日は「父の日」である。世の中には、人それぞれの親子関係があり、十人十色の父の思い出があると思うが、「愛された」という記憶のない人は、その成長の段階で自分自身を受け止めれないものがある、ということがある本に書かれていた。私たちはすべての人に、イエスが示して下さった父としての神が、すべての人を一人一人として受け止め愛して下さっていることを伝える必要がある。そのことで人の人生が、世界がどのように変わっていくか、拡がっていくかということを思う。今は親自身が、親としての自覚の中で、落ち着いて子どもの成長を見守るということが余り見聞き出来なくなった。親自身が一人の「人間」として大変で、子どもに関しては、子どもの進路のために心を囚われている部分が多い。そうした中で、子どもたちは塾通いや勉強に追われて、外見には分からなくても、果物の中身のように心を傷ませていくように思われる。私たちは自分の眼では見えないところを、見ておられる、見えない神に委ねることを忘れないでいきたい。

委ねるとは、相手を自分の期待や願いに囚われないで、受けていくことでもある。

2003年6月15日(日)主日礼拝宣教要旨

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