復活のイエス

13この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、 14このいっさいの出来事について互に語り合っていた。 15語り合い論じあっていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。 16しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。 17イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。 18そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけがこの都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。 19「それはどんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、 20祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。 21わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。 22ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、 23イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。 24それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした。」……。
ルカによる福音書 24:13-24(-35)

今日は主イエスの復活を記念するイースターである。今朝7時から、鶴舞公園普選壇で予定されていた第43回イースター早天礼拝(主催・名古屋キリスト教協議会)が雨天のため、場所を私たちの教会に移して、約140名の参加でもたれた。イースターは、キリスト者にとって、記念すべき特別な日である。それは、教会の存立も、私たちの信仰も、このイエス・キリストの復活の事実から始まり、且つそこに土台を置いているからである。弟子たちは、自分たちのことを「主の復活の証人」(使徒行伝1:2)と語り、パウロは「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。」(Tコリント15:14)と記している。

しかし聖書によると、主が復活され、その事実が弟子たちに告げられた時、誰もそのことを理解できなかった。11節に「使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった。」とある。彼らは、主イエスが長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえることなど、イエス御自身から聞いていたが、その意味を理解していなかった。よく、聞いていて聞いていなかったとか、見ていて見ていなかった、という話を聞くことがあるが、多くの場合、心が他のことにとらわれていたということである。イエスの弟子たちは、イエスと一緒にいるということ以外考えたくなかったのかも知れない。

今日の箇所は、失意のうちにエマオに向う二人の弟子にイエスが近づかれ、言葉を交わされながら、彼らと一緒に歩かれるところである。「しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった」とある。そのかたが、二人の中に入り、み言葉を語られ、一緒に食卓に着かれた時、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、「彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。」(31)

イエスのみ姿は見えなくなったが、彼らは、そのかたとの語らいと、聖書の説き明しを受けて、「お互の心が内に燃えたではないか」と言った。「そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、『主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった』と、言っていた」(34)とある。「よみがえって」という言葉は、原文では受身の形になっているから、正確には、「よみがえらされた」となる。

イエスは、神によって死にうち勝ち、新しいいのちに甦られたということである。普通人が死んでも、近しい人たちの心の中に、想い出として生き続けるということはある。しかし、イエスが甦られた、生きておられるということは、そうした私たちの心の中に起こる事柄ではなく、神の側からの全く新しい出来事として起ったということである。

新約聖書はその事実に、直面した人たちの証言である。復活の主に接したことによって、弟子たちは、主イエスが語られていた言葉、「父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう」(ヨハネ14:26)から、十字架は人として生きられた神の御子が、私たちの罪を担う贖いの十字架であったことを悟った。神の人に対する救いの目的が、イエス・キリストの十字架と復活によって明らかにされたのである。

私たちは「わたしは、初めであり、終りである」(ヨハネ黙示録22:13)と言われる神の時の中に置かれている者であることを、しっかりと心に覚えたく思う。

イエス・キリストの降誕・十字架・復活は、このことを示すために起った出来事である。私たちは、この世に生まれたから、「生きている」からというところで、自分なりに人生をこういうものときめてしまうのでなく、私たちの想像もつかない世界、そして、大いなる方の存在に思いをかけたい。

先程、私たちは田中裕介さんの信仰告白をお聞きした。私は信仰告白を聞くたびに、「大きいよろこびが天にある」(ルカ15:7)と言われた主イエスの言葉を、心に強く感じる。「わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない。また、わたしの父と御使たちの前で、その名を言いあらわそう。」(ヨハネ黙示録3:5)とある。

信仰告白をされる方の名が、既に書きとめられていることを嬉しく思う。自分がどのようなものとされたか、ということを、自分の名前と同じように、しっかりと心に覚え込んでいるなら、いつ、どのような困難に出会っても、必ずそれを乗り越えていくことが出来る。「しっかり、心に覚え込んでいるなら」と、わざわざ言ったのは、分かっているはずの、このことが、実は必ずしもそうでないということがあるからである。

「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。」コロサイ3:16

2003年4月20日(日)主日礼拝宣教要旨

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